「ったくもう(後)」(2018年06月13日)

もちろんインドネシア人の口から「Dasar・・!」という言葉だけが出てくることも再三
だが、むしろその後にさまざまな名詞や形容詞が続いていることに気付くだろう。
bule, orang aneh, orang gila, orang Jepang, brengsek, anak-anak, preman, anak 
durhaka, polisi, sok-sokan, kampungan, mata duitan, hidung belang, mata keran-
jang, koruptor, perempuan, penakut, tukang omong, penjilat, pemeras, .....

動物や物品あるいは抽象名詞も使われる。
anjing, kucing garong, barang murahan, kerja sembarangan, kawe kawean, 
kantong bolong, ....

それらの連語が感情の激していない状態で語られるとき、理性的にひとつの文章を成して
いることに気付くことがある。
Dasar kau, mata duitan!
Dasar kamu, namanya juga perempuan!
Dasar itu jembatan, hasil kerja sembarangan akibatnya korupsi.


ここまで来ると、dasarが意味しているのは生来的に持っている性質や特徴であることが
よく分かる。つまり対象に挙がっているものごとが本来的に持っている性質や特徴をそれ
は意味しているということだ。日本語ではそれを「地じ」と言う。「地が出る。」「そろ
そろあいつの地が現れるころだ。」などといった用法の「地じ」である。

dasar = 「地じ」であるなら、dasar の他の語義との類似性はきわめて高まり、「当然」
などという語義を持って来なくとも、十分理解しやすいものになるのではあるまいか?

もちろんシチュエーション言語としてのdasarを日本語の「まったくもう」と訳して悪い
わけではないが、そこに登場するdasarという言葉の奥行きを把握することで、本当にネ
イティブ式の言語操作が可能になるとわたしは思う。


それらは似たようなシチュエーションで使われているものの、日本語の「まったくもう」
は「あのバカタレめが」とか「このドチンピラ野郎が」といった言葉が続かないかぎり、
それ自体は罵り言葉にならず、事態を慨嘆するところでとどまっていると理解されるの
に対し、インドネシア語のdasarはそれだけで「お前はそんな奴なんだぞ」という、張本
人を見下しつつ非難する罵り言葉になっているという点に違いがある。

そういうシチュエーションにおけるdasarの語義が日本語の「まったくもう」であるとい
う辞書ホリック型の学習をしてしまうと、インドネシア人発言者の感情が肌にしみ込ん
で理解されることに距離が生じる懸念があるかもしれない。

日本語の「まったくもう」と言うつもりで「Dasar...!」と言ったら、この日本人は誰か
を見下しながら非難しているという理解が周囲のインドネシア人の間に生じるようなケ
ースは、本当に起こらないだろうか?[ 完 ]