「南往き街道(6)」(2018年06月14日)

ジュアンダ通りが東に向きを変えてからわずかな距離の場所に、われわれは小さな博物館
を植物園敷地側に見出すことになる。これがボゴール動物学博物館(Museum Zoologi Bo-
gor)だ。植物園敷地内南西角のエリアは研究施設が集まっている場所であり、この博物館
は最初からボゴール植物園の付属研究施設として設けられたものだった。1894年に農
業動物学研究所(Landbouw Zoologisch Laboratorium)がオランダ人植物学者コニングス
バーハー(J. C. Koningsberger)の提唱で設けられ、1906年に動物学博物館兼作業場と
名を変えた。1910年になって動物学博物館兼研究所に昇格している。


ボゴール宮殿の庭園からボゴール植物園に移行する発端は、イギリス占領期を終えて東イ
ンドがオランダに返還された後、最初のオランダ植民地政庁総督に任命されたファン・デ
ル・カペレン(G.A.G.Ph. van der Capellen)の時代に戻る。東インド総督はVOC時代か
ら通算で数える習慣になっているため、それに従うならファン・デル・カペレンは第42
代総督に当たる。

生物学者アブナー(Abner)が有用植物農園・研究者育成・他の植物園に分配するための植
物コレクションと開発のためのセンターとしての場所を設けるアイデアをファン・デル・
カペレン総督に提案した。

プロイセン出身でオランダに移住したカスパー・ギオーグ・カール・レインワルツ(Cas-
par Georg Karl Reinwardt)教授が蘭領東インド植民地政庁の農業芸術科学局長の職にあ
り、そのアイデアに沿ってバイテンゾルフ宮殿の庭園をその目的に使うようになる。

そして1817年5月18日、ファン・デル・カペレン総督はその庭園を公式に
’s Lands Plantentuin te Buitenzorgとして開所した。バイテンゾルフ・ナショナルボタ
ニカルガーデンだ。


レインワルツ教授は植物園としての整備を、最初ラフルズに命じられてそれを手掛けたイ
ギリス人ウイリアム・ケントと、ロンドンのキューガーデンのキュレータだったジェーム
ズ・フーパーの助力を得て、実行した。

レインワルツ教授は1822年までバイテンゾルフ植物園の所長を務め、その間にハーバ
リウムコレクションの収集を行っている。

そして所長が何代も交代したあとの1868年5月30日にやっと、この植物園がバイテ
ンゾルフ宮殿の監督下からひとつの研究機関として独立した。[ 続く ]