「パサルマイェスティッ(前)」(2018年06月18日)

Pasar Mayestikは日本語でマイェスティッ市場。Mayestikという語が英語のマジェスティ
ック(majestic)に由来しているのは明らかだ。その英語綴りをオランダ語式に読めばマイ
ェスティッとなり、その音をインドネシア式綴り方で書けばMayestikとなる。どうしてこ
のようなややこしいことが起こったのだろうか?

実はマイェスティッという語の由来は、パサルマイェスティッの南側にかつて存在したマ
イェスティッ映画館(Majestic bioscoop)から取られたものだそうだ。映画館の屋号とし
て用いられたMajesticは英語であり、オランダ語ではない。

クバヨランバルの開発はインドネシア共和国が1948年に企画して、1949年3月に
建設が開始され、1955年に完了した。建設工事は1948年に設立されたCentrale 
Stichting Wederopbouw(再建設のための中央財団、略称CSW)が行なった。この地域
はオランダ時代に空港の建設計画が作られたが、日本軍の進攻で棚上げされたままにされ、
インドネシアが独立したあとそこにニュータウンが建設されたというのが歴史の流れだ。

現在パサルマイェスティッがあるトゥバ(Tebah)通り地区南部は商業エリアであり、そし
て北側のデンポ(Dempo)通り地区はかつて高級住宅街だったエリアだ。古い写真を見ると、
映画館が地域の隅にあって、近くには住宅の数倍ある大きな建物が写っており、地域の中
にはまばらに邸宅が並んでいる。。その大きな建物がきっとパサルなのかもしれない。パ
サルマイェスティッが作られたのは1950年代で、トゥバ通り南部地区は映画館の名前
にちなんでマイェスティッ地区と呼ばれ、そこに設けられた市場も当然のようにパサルマ
イェスティッと呼ばれるようになったそうだ。そしてマイェスティッ映画館はいま、アン
グレッ書店(Toko Buku Anggrek)になっている。


インドネシア語は何度も綴り方に変更が加えられてきた。西スマトラ州生まれのオランダ
人言語研究家ファン・オパイゼンがムラユ人と共同でムラユ語のアルファベット表記を改
善し、1896年に公表した。その表記法を1901年に蘭領東インド政庁が公式綴り方
に指定したことから、それ以来正式なインドネシア語の書法として扱われてきた。言うま
でもなく、音と綴りの関係はオランダ語をベースにしているため、ジャの綴りは/dja/、
ヤの綴りは/ja/になっている。

共和国独立宣言後、第四代目の文部大臣に就いたスワンディ氏が一部改善を行い、オパイ
ゼン式綴りの中にある/oe/を/u/に改めたのをはじめ、いくつかの合理化を行った。しか
しオランダ語をベースにする基本観念はそのままにされた。

1957年、1966年、1972年に部分的な改善構想が出現し、それらの流れを踏ま
えて1972年に大掛かりな変更が実施されて、現在の綴り方が確立された。この綴り方
は改良綴り(Ejaan Yang Disempurnakan = EYD)と命名されて今日に至っている。[ 続く ]