「南往き街道(8)」(2018年06月19日)

1834年10月10日に起こったバイテンゾルフの南西15キロに位置するサラッ(Sa-
lak)山の噴火による大地震で、バイテンゾルフ宮殿は大きな被害を被った。宮殿の改修工
事が行われている間、不自由になった施設を補完するために宮殿の左向かいに建物が作ら
れた。この建物が1856年、ビンネンホフホテル(Binnenhof Hotel)として公式に営業を
開始する。現在のホテルサラッ・ザヘリテージ(Hotel Salak The Heritage)がそれだ。

ところが1913年、資金難に陥ったビンネンホフホテルは身売りしてアメリカンホテル
と名を変えた。だがアメリカンホテルの大株主だったディベッツ(E.A . Dibbets)は192
2年に会社を倒産させてホテルの経営を一手に握る。屋号をディベッツホテルと変えての
再出発だ。

だがそれも長続きしない。ホテル名は1932年にベルビューディベッツ(Bellevue-
Dibbets)ホテルと改名された。実は19世紀にベルビューホテルというのがバイテンゾル
フの別の場所にあったのである。

どうやらその老舗のベルビューホテルがバイテンゾルフの西洋人向け高級ホテルとして最
初のものだったらしい。少なくともビンネンホフより古くからあり、イギリス人生物学地
理学者アルフレッド・ラッセル・ウオーレス(Alfred Russel Walles)が1830年にバイ
テンゾルフ植物園を訪れたとき、ベルビューホテルに投宿したことが書き残されてある。

そのベルビューホテルがあったのは、現在ボゴール植物園南西角の向かいに建っているボ
ゴールトレードモール(Bogor Trade Mall)の場所だ。ベルビューホテルは1900年代に
入って店を閉めたため、ディベッツは誰に断りもなしにその名前を使うことができたよう
だ。


19世紀後半にバイテンゾルフには西洋人向け高級ホテルがもう一軒あった。デュシュマ
ンドフェール(Du Chemin De Fer)ホテルがそれだ。フランス語の鉄道という屋号が示す
通り、このホテルはバイテンゾルフ鉄道駅のすぐ近くを立地にした。鉄道駅のそばに設け
られたウィルヘルミナパーク(Wilhelmina Park)の道路をはさんで向かい側だ。

そのウィルヘルミナパークはインドネシア共和国独立後タマントピ(Taman Topi)と名を変
えたあと、現在はアデ・イルマ・スリヤニ公園と名する遊園地になっている。そしてデュ
シュマンドフェールホテルも、古い建物のまま現在はボゴール市警本部として使われてい
る。この旧高級ホテルに限っては、いくら無料だと言われてもお泊りを避けるほうが無難
だろう。

ベルビューディベッツホテルは1942年の日本軍による占領で接収され、日本帝国軍憲
兵隊がバイテンゾルフ地区本部として使った。1945年暮れに復帰してきた東インド植
民地文民政府が再び自国資産として握ったものの、インドネシア共和国主権承認に伴って
インドネシア政府に移管され、インドネシア側は1950年にそこをホテルサラッとして
営業を再開させた。その後何度か大改装が行われ、最新の大改装は2000年で、ホテル
サラッ・ザヘリテージとして現在に至っている。[ 続く ]