「パサルマイェスティッ(後)」(2018年06月19日)

EYDはジャを/ja/、ヤを/ya/と綴る方式に変更したため、それまで/ja/と書かれていた
単語は/ya/に変更された。

Majesticという英語の屋号を「マイェスティッ」と発音していたインドネシア人はEYD
によってその綴りをMayestikと書くようになった、というのがパサルマイェスティッの名
前の由来らしい。


そのパサルマイェスティッは1970年代からジャカルタ南部のファッションマーケット
として盛名を馳せるようになる。布地・アクセサリー・裁縫用品・仕立て屋などが集まっ
て、材料から縫製まであらゆることがそこでオーダーできるようになった。言ってみれば、
手ぶらでパサルマイェスティッへ行き、お好みの材料を選び、仕立て屋に持ち込んで一張
羅を作らせ、それを着てご帰還することができるというものなのである。

1970年代というのはまだまだベチャが庶民の足として全盛の時代であり、つまりはベ
チャの行動領域がマジョリティ庶民の行動領域になっていた時代だ。70年代中盤のジャ
カルタを肌で感じた印象では、マジョリティ庶民の外出はベチャや自転車の行動範囲であ
り、今のような旅行ブームなど想像もつかないありさまだった。バリ島旅行ですら、した
ことのないひとが圧倒的で、一年から数年に一回、親戚の用があるからどこそこへ行く、
というような時代だった。

だから東南アジア最大のタナアバン市場へすら一度二度行ったことはある、という南ジャ
カルタ住民にとっては、パサルマイェスティッは重要なファッションマーケットだったわ
けだ。

ところが、住民の脚が強化されてくると、行動半径が広がって行き先のバラエティが拡大
する。家から近いというメリットは価値の低下を起こすのである。

1990年代にパサルマイェスティッを再訪した時、パサルはほとんどスラムと化してい
た。ファッションストリートはパサル建物の外側に並ぶインド人の反物店やファクトリー
輸出検査落ち製品を廉価販売する量販店などに移っていて、暗くごみごみしたパサルの中
へ入る人の足はあまり旺盛でなかった印象が強い。


都庁は2010年にパサルの大改装を開始し、10階建てのモダンなモールの姿に変えて
2012年にオープンした。ワンストップショッピングの機能を持たせた新装のパサルマ
イェスティッは、かつてのフルサービスファッションマーケットが再現され、反物から装
飾品類、そして建物2階には150軒近い裁縫店/仕立て屋が集まっている。仕立て屋の
中には腕の良いデザイナーもいて、アーチストの舞台衣装などをこなす職人もいるそうだ。

規模としてはタナアバン市場に及びもつかないが、ファッションの一貫プロデュースの場
としてとらえるなら、パサルマイェスティッはユニークなパサルだと言えるだろう。[ 完 ]