「低能力教師は低能力生徒を生む」(2018年06月20日)

小学校の教室で先生が、今日は図画の試験をする、と生徒たちに言った。「何を描くの?」
と生徒がざわめく。画用紙を配りながら、「クレヨンで風景を描きなさい。」と先生が言
う。

「わあ、それボク得意だよ。風景はねえ、まず山があって田んぼがあるんだ。そして青空
もなきゃあ。」生徒のひとりが仲間に言う。

別の生徒が「色鉛筆で描いていいですか」と先生に尋ねたが、先生は許可しなかった。こ
の生徒は隣の生徒に何を描くのか尋ねられて、「風景なんだから、ビルが並んでて、木か
ら枯れ葉が落ちるところかな。宇宙船から見た景色でもいいよな。」と言う。

提出された絵に先生は評点を付けた。水田があって山と青空が遠景になっている絵に先生
は高い評点を与え、「よくできました」と賛辞を添えた。都会の風景は低い評点しかもら
えなかった。

インドネシアで風景画と言えば、水田に山と相場が決まっている。先生はきっと、都会の
風景を描いた生徒を、常識を知らない頭の悪い生徒だと評価したにちがいない。教師の固
定観念が生徒の個性と創造性を歪め、自由な発想の芽を摘んで国民を画一化に向かわせる。
ここ十年来、政府は小中学校での個性と人格を伸ばす教育を叫んでいるというのに、教育
現場は依然としてそんなものだ。


インドネシアの基礎教育が低レベルであることは、PISAの結果が示している。201
5年のPISA報告は、リテラシー・科学・算数の能力がインドネシアの生徒は低いこと
を示している。2016年の教育文化省調査でも、期待されているレベルに達していない
生徒は算数で77.1%、科学73.6%、読解46.8%だった。

ある国民教育支援民間団体のデータによれば、小学校2年生で文章を流ちょうに読み、内
容を正しく理解できる生徒は47%しかいない。流ちょうには読めないが、内容は把握で
きている生徒は26.3%、流ちょうに読むけれど、内容の理解には難点がある生徒は2
0.7%、流ちょうにも読めず、内容も理解できない生徒は5.8%だそうだ。

そして15歳、中学三年生のケースでは、流ちょうに読めるにも関わらず、内容が正しく
把握できない生徒が37.6%もいた。読む技術は年数をかけて習得できても、内容を理
解するという脳の働きへの指導がいかにインドネシアでは得られにくいのか、ということ
をそれが示しているようだ。

その傾向は更に国民全体にまで及んでいく。国際的リテラシーレベル1の規準を満たして
いない国民がなんと70%にのぼっていた。簡単な文章の読解力・文章に基本的な単語を
補う能力はあっても、構文やパラグラフ構成の正しい理解力を持っていないというのであ
る。

似たような問題は大学生のコース選択にも出現している。自分の向き不向き、得意不得意、
興味や関心、将来の社会生活における就職あるいは自分の人生の場、などといった諸要素
を勘案して大学生は何を専攻するのかを決めるものだが、インドネシアの大学生は9割が
確信を持たないで選択している。そしていざ選択学科で学業を続けているうちに、間違っ
た選択をしてしまったと自分の失敗を後悔している学生が87%もいた。