「南往き街道(10)」(2018年06月21日)

そのバイテンゾルフ宮殿の真正面に北から下ってくる道路はフローテウエフ(Groote weg)
と名付けられ、宮殿の西半分を迂回して植物園の裏手中央地点まで伸ばされた。現在のス
ディルマン将軍通り(Jl Jend. Sudirman)からジュアンダ通りの全域をカバーしている。

そのスディルマン将軍通りの側は全長1.5キロの完璧な直線道路で、現在インドネシア
語でピラルプティ(PilarPutih)と呼ばれているヴィッテパアル(Wittepaal)の設けられた場
所で枝分かれし、直進する方はプムダ通り(Jl Pemuda)となったあとさまざまに名を変え
て、一路30キロ、シャステレインが18世紀初期に開発したデポッに向かって北上する。

分岐して東に向きを変えた方の道路は現在のAヤニ通りで、2キロほど北東に伸びた後、
メステルコルネリスからまっすぐ南下してくる道路に合流する。このAヤニ通りは最初、
バタヴィア通り(Bataviasche Weg)と名付けられ、共和国独立後ジャカルタ通り(Jl Ja-
karta)に改名されたあと、現在のAヤニ通りに変わっている。

ヴィッテパアルというのは白く塗られた巨大なオベリスクを指している。バイテンゾルフ
市域の境界線上に位置し、バイテンゾルフ宮殿のテラスから眺めた風景の中に目を止める
ためのポイントとしてド・イーレンス総督が1839年に建てさせたという話になってい
る。


プムダ通りとAヤニ通りの両脇には街路樹として植えられたクナリの巨木が列をなしてい
る。高さ20メートルにも達するほどのそれらの街路樹は1830年ごろに当時のバイテ
ンゾルフ・ナショナルボタニカルガーデン所長だったテイスマン(Johannes Elias Teijs-
mann)がアンボンから取り寄せた木を植えさせたものだ。

バタヴィア通りの両脇はゴム園が作られ、バタヴィア〜バイテンゾルフ間の往来が盛んに
なるにつれて、厩舎や馬具職人の作業所なども増えて行き、馬の放牧場や馬場も設けられ
た。

オランダ人が邸宅を構えるようになって道路沿いの一部が住宅エリアになったものの、ゴ
ム園の多くは共和国独立後まで維持された。クナリの街路樹はゴム園と道路の境界を見分
けるための指標になった。1935年にグッドイヤー社がタイヤ工場をプムダ通り側に開
設したことで、この一帯で採集されるゴム原液は一手にそこへ流れて行くようになる。

しかし共和国独立後、ランドリフォームの名の下にゴム園は接収されて宅地化が進められ、
この通りは雑然とした住宅地区へと変貌して行った。コロニアル様式の家屋が維持されて
いるところもあるが、中には建替えるために壊されたものや、建物は維持して飲食やその
他のサービス業の営業場所に変わったものなどさまざまだ。少なくとも、この通りを訪れ
たひとは古い歴史の香りを嗅ぐことができるにちがいない。[ 続く ]