「南往き街道(11)」(2018年06月22日) ボゴールにパリがある。ボゴール鉄道駅から西のチバロッ(Cibalok)川を越え、次のチド ゥピッ(Cidepit)川の手前を北向きに並行するプリンティスクムルデカアン(Perintis Ke- merdekaan)通りを北上していくと、クボンコピ(Kebon Kopi)地区の向こう側にそのパリ がある。 この地区は中をスンボジャ(Semboja)通りとクナガ(Kenanga)通り、およびチュンパカ (Cempaka)通りがT字型に分割している住宅地区で、1918年にバイテンゾルフ市庁 がヨーロッパ人職員のための住宅地として建設したものだ。そこには余裕に満ちた空間に 包まれているインディ様式の邸宅が、単棟と併棟を合計して46軒建っていた。 地区の中には住民用の長さ50メートル幅10メートル深さ2メートルの水泳プールも作 られ、共和国になって以降にこのプールで育った水泳選手が出たこともあるらしい。プー ルの水源は近くの湧水が使われた。今現在、このプールは既に廃墟の態をなしている。 最初、この住宅地はすべてヨーロッパ人が住んでいたが、日本軍ジャワ島進攻が始まると 住民は逃げ出し、替わってバイテンゾルフ防衛部隊に加わったグルカ兵がわずかな期間、 使用したらしい。日本軍がバイテンゾルフを占領すると、このパリ地区は婦女子用俘虜収 容所にされた。 パリ地区(De Staate van Parijs)と命名されたそのボゴールのパリは、高名な建築家で都 市計画家でもあるトーマス・カーステン(Thomas Karsten)の設計になる。オランダ生ま れのかれは第一次大戦の混乱を避けて東インド植民地に移り、スマラン・バイテンゾルフ ・マディウン・マラン・バタヴィア・マグラン・バンドン・チルボン・ヨグヤカルタ・ス ラカルタ・プルウォクルト・パダン・メダン・バンジャルマシンで建物と街のデザインに 腕をふるった。 かれは従来東インドで行われていた「ヨーロッパを植民地に植え付ける」というコンセプ トを批判し、生活環境と人間工学の面から人間が採るべき姿を演じる舞台としての街設計 をその視点に持ち込んだ。かれはジャワ人女性と結婚して家庭を持ち、ジャワを自分の生 涯の地とすることを定めていたようだ。1942年の日本軍進攻で純血オランダ人のかれ はチマヒの俘虜収容所に強制収容され、1945年にそこで没した。[ 続く ]