「南往き街道(13)」(2018年06月26日)

ボゴールにも英雄墓地がある。植物園から南におよそ1キロ半の距離で、公式名称をTa-
man Makam Pahlawan Dredetと言い、ドレデッは地名である。墓地の北側の通りがドレ
デッ(Dreded)通りだ。

インドネシア共和国の国体を護持するために生命を投げうった英雄たちがここに眠ってい
る。マジョリティは1945〜1949年の対オランダ闘争期の時代に没したひとびとだ
が、その後起こったDI/TII反乱で殉職したひとびともいる。

きわめて特徴的なのはさまざまな種族・人種が混在していることで、インドネシア共和国
の生成が名実ともにビンネカトゥンガルイカであったことを象徴するかのようだ。そして
その多様なひとびとがインドネシア共和国の維持のために身命を賭したのである。

地元のスンダ人は言うに及ばず、バンテン人、ジャワ人、スマトラ人、東部インドネシア
地方出身者、華人、インド(Indo)と呼ばれる欧亜混血者、そして日本人までもが混じって
いる。

1948年8月11日にボゴールで没したモハマッド・コシム・タナカ曹長、1967年
に没したイブラヒム・マルヤマ中佐、ボゴールで1983年に没したトコヨダ大尉はその
前スマトラで軍務に就いていたらしい。対オランダ闘争に身を投じてここに葬られている
日本人はその三人だそうだ。華人はふたりで、イギリス系欧亜混血者はひとり。

イギリス系欧亜混血者ユヌス・アッマッ・マッター(Yunus Ahmad Mutter)は珍しい例の
ひとつだろう。かれは1928年にヨグヤカルタで生まれ、1971年に英国のニューカ
ッスルで没した。そして愛するインドネシアに骨を埋めることを望んだのである。

かれは独立闘争期にヨグヤカルタでインドネシア共和国軍諜報部門士官として活躍した。
その墓碑には、憲兵大尉・情報収集局副局長と記されている。

ふたりの華人はリー・チンイエーとニオ・ハンスイで、ふたりともDI/TII反乱の鎮
圧軍一員として没している。リーはシリワギ師団軍人で1952年7月にチアンジュルで
戦死。ニオは1953年11月に警察高官としてチビノンで死亡した。そのときのチビノ
ンでの戦闘では、警察機動旅団の指揮官級のひとびとが多数戦死しており、かれらの墓碑
もそこに並んでいる。

ボゴールの通り名にその名を残した英雄もここにいる。45年12月25日に没したトゥ
バグス・ムスリハッ(Tubagus Muslihat)大尉、そして1947年にスカブミで戦没したト
レ・イスカンダル(Tole Iskandar)少尉。[ 続く ]