「知っていることに甘んじる国民(前)」(2018年06月26日) 2018年の中高修業国家試験結果が相変わらずのみすぼらしいものであることから、教 育メソッドの抜本改善が叫ばれている。しかしいくら優れたメソッドであっても、活かす も殺すもは現場でそれを用いる教師次第という要因を忘れることはできない。 わたしは最近インターネット上でkamiとkitaの違いを間違って説明しているインドネシア の若者たちに直面して、驚愕した。何人もが同じようにしているのだからわたしはインド ネシア語が今やそのように変化してしまったのかと思ったが、年長者からの若者たちをた しなめる書き込みを読んでやっと安堵した。 中高修業国家試験では、日本で言う国語に該当するインドネシア語の試験結果はおおむね 良好なのだが、高校の社会科学系コースを取る生徒の成績が目立って悪いのは日本の文科 系生徒の傾向との類似を示すものかもしれない。 インドネシアの学校教育は、というよりも社会常識としてと言えるのかもしれないが、い わゆる知識偏重だ。たくさん記憶し、たくさん知っていることが知的能力の優劣を測る指 標にされている。 知らないということが他人を見下す根拠にされる。ジャカルタの会社で働いているころ、 会社から最寄のバス停の名前を知らないことで、部下の女子社員に笑われたことがある。 そのとき、これがインドネシア文化なのだ、ということを実感した。小学校の外の道路を 歩いていると、低学年の教室なのだろう、先生が大声で言葉を言い、生徒が声をそろえて その言葉を真似て言う授業風景をいつも耳にした。 先生が知識を与え、生徒はそこで得た知識をキープするのが務めであり、それができてい るかどうかをテストして成績を決める、というのがインドネシア型教育の本質のようだ。 先生にとっては楽でよい。 知っている状態を理解というレベルにまで高めてやるとき、各生徒にとって何が理解を困 難にしているのかを見定めて適切な助言や指導を与えることが先生の役割であるというコ ンセプトが教育現場での普通の姿になるのは、いつのことだろうか?ひとりひとりの生徒 が持っている問題要因は画一でないのだから、画一教育でその領域まで入り込んで行くの は不可能だろうとわたしは思う。[ 続く ]