「南往き街道(17)」(2018年07月02日)

ラフルズ総督の時代、バリ人の若い女奴隷はひとり50〜100米ドル相当の値が付いて
いた。男奴隷が10〜30米ドル相当だったのとは大きな違いだ。最初からバリ人女奴隷
はオランダ人や華人に人気が高かった。女としての見かけが良いことに加えて、家政の運
営能力が高かったのが原因だ。かの女たちの中に、VOCバタヴィア政庁の高官職に就い
た欧亜混血児の母親になった者も少なくなかった。つまり、オランダ人高官のニャイにさ
れたわけだ。だが子供は父親に取り上げられ、オランダ人としての教育としつけが与えら
れた。その子にとって生母がいったい何だったのかは想像に余りあるに違いない。

ファン・デル・パッラ(Petrus Albertus Van der Parra)第29代総督の時代(1761〜
1775)バタヴィアには年間4千人ほどの奴隷が流れ込んできた。奴隷人口増加率が史
上最大になったのがその時期だ。言うまでもなく奴隷需要が膨れ上がったのがその原因で
あり、奴隷をたくさん抱えることがステータスシンボルとなるという価値観がバタヴィア
のすみずみまで包み込んだ時代がそれだったのである。もちろん奴隷買付人がやってきて
購入品を持ち帰ることも頻繁に行われていたから、全員がバタヴィアに住み着いたわけで
もないのだが。

VOCバタヴィア政庁参事会メンバーの娘で高官の妻になったコルネリア・ヨハナ・ド・
ベヴェレ(Cornelia Johana de Bevere)はオランダの親類に書き送った手紙の中に、自分は
59人の奴隷にかしづかれていると書いている。ご主人様が外出するときの傘持ちや扇で
あおぐ役、料理係、庭師役、夜の灯り役、裁縫役、靴作り役など、ひとりひとりが別々の
役目を担当した。

別の記録では、1775年に第30代総督になったファン・リームスデイク(Jeremias Van
 Riemsdijk)は自邸に奴隷を2百人擁していた。男奴隷に女奴隷、そして奴隷たちが産んだ
子供も当然奴隷であり、その人数が2百人だったということをそれは意味している。


バタヴィアの高官と家族は大勢の奴隷に囲まれて生活した。奴隷は自分の所有物であり、
現代人なら自分で行うことを、可能な限り奴隷にやらせた。奴隷をたくさん持てば、自分
では何もせず、自分の身の回りのことを奴隷にさせることが可能だ。自分で何もしない人
間ほど偉いという価値観がここにも顔を出す。

特にご主人様が男性の場合、女奴隷はセックスの相手という役目も与えられた。華人や軍
人にその傾向が高かったようだ。セックス相手が気に入らなくなれば、また奴隷市に売り
に出される。自分がその女奴隷に産ませた子供までが一緒に市に立たされることも稀でな
かった。カリブサール東岸の建物のひとつで、奴隷市が開かれたらしい。奴隷市では競売
が行われる。高く落札されれば旧ご主人様が儲かるという寸法だ。美人で若い女奴隷に1
千米ドル相当の値がついたこともあったらしい。[ 続く ]