「南往き街道(18)」(2018年07月03日)

ご主人様の中には、女奴隷に売春させる者もあった。売春で稼いだ金はご主人様が全部取
り上げた。奴隷に暴力を振るおうが、その結果死亡しようが、はたまたレープしようが、
ご主人様が自分の所有物を壊したりもてあそぶだけのことだから、罪を問われることはな
い。それはバタヴィア政庁が公認していることでもあった。

そんな境遇に我慢できなくなった奴隷たちが脱走してブカシやカラワンに隠れ住むことも
頻発した。逃亡奴隷はまともな仕事に就くことができないため、犯罪行為で生きて行く道
しか残されていない。

脱走ならまだしも、始末に負えないのは奴隷の反抗だった。反抗的な奴隷への仕置きには
暴力が使われた。暴力を振るいたくないご主人様は法執行人(balyaw)を雇って行わせた。

それでも効き目がない場合、ご主人様は裁判所に許可を求めて、反抗者に鉄鎖を結び付け
たり、独房に閉じ込めたりした。反抗者が恭順するまで、何年間もそれが続けられたよう
なことも起こっている。


最初クーンがジャヤカルタの町を奪ってVOCの根拠地にしたとき、運河が縦横に走るオ
ランダ風の街作りが始まった。その実行には巨大な労働力が必要だった。マルクのバンダ
島占有はスパイス獲得に大きく貢献し、加えてオランダ人に反抗するバンダの男たちを奴
隷にしてバタヴィアに移し、街の建設に貢献させた。

ヌサンタラのあちこちでVOCが経済利権の奪取のために地元支配者と戦争し、敗れた地
元側の捕虜は奴隷としてバタヴィアに送り込まれた。

いや、ヌサンタラの外でさえも、1641年にポルトガルがアジア経営の根拠地にしてい
たマラッカを陥落させて、ポルトガル系メスティーソを奴隷にし、バタヴィアに連れて来
た。インドのマラバールやコロマンデルなどのポルトガル基地や、スリランカなどでも同
じことが起こった。

ポルトガル系メスティーソのカンプンは北ジャカルタ市チリンチンのトゥグ(Tugu)村だ。
そんなかれらが伝え残してきた音楽芸能クロンチョントゥグ(Keroncong Tugu)は南国風
の軽やかなリズムの陰に、そこはかとない憂愁を漂わせている。

連れて来られた当初は奴隷身分だったメスティーソに、1661年、カソリックからプロ
テスタントに改宗するなら奴隷身分から解放されるという政策が施された。解放奴隷はマ
ーダイカー(mardijker)と呼ばれ、インドネシア語ムルデカ(merdeka)の語源になったとさ
れている。奴隷制度廃止の法律化が確定した1814年、バタヴィア住民人口47,21
7人中に14,239人の奴隷が含まれていた。実質的な意味でヌサンタラの全土から奴
隷が姿を消すのは、それから数十年経過して19世紀後半に入ったあたりのことになった。
[ 続く ]