「南往き街道(19)」(2018年07月04日)

バタヴィアで一番古いカンプンバリはメステルのもので、1667年がその縁起になって
いる。次に古いのがアンケ(Angke)のカンプンバリで、1709年にイ・グスティ・クト
ゥッ・バドゥル(I Gusti Ketut Badulu)を頭領とする集団が住み着いた。そのために別名
カンプングスティという名前で人口に膾炙している。アンケにはカンプンブギスもあって、
それらは隣り合わせだった。このカンプンをひとびとはカンプンバリと呼ばず、カンプン
グスティを通称としたらしい。
もうひとつのカンプンバリは中央ジャカルタ市ガジャマダ通り西側のクルクッ(Krukut)地
区で、こちらは始まりが1777年である由。クルクッ地区のカンプンバリはライニール
・ド・クレーク(Reinier de Klerk)第31代総督がモーレンフリートウエストの自分の私有
地に1760年に設けた別荘南側に隣接していた。その別荘は今、国立公文書館(Gedung 
Arsip Narsional)と呼ばれており、展示会場や結婚式の貸し出しなどに使われている。現
在のインドネシア共和国公文書館は南ジャカルタ市アンペララヤ(Ampera Raya)通りに最
新設備を完備したビルになって建てられている。
どうやら、国立公文書館と同じようなヴィラ形態の歴史的由緒を持つ豪壮な建物がそこか
ら南側にあまり見られない理由が、そのあたりの事情から推測されてくる。
さて、メステルコルネリスにあるカンプンバリの南側には、ムラユ人のカンプンが作られ
た。今のカンプンムラユがそれだ。ここでムラユと言っているのは当時のマラッカ半島、
現在のマレー半島で主流を占めたひとびとで、同一文化圏としてスマトラ島北部・マレー
半島北部(タイ領の一部)シンガポールなどの島々からひとびとはカンプンムラユにやっ
て来た。
かれらは17世紀後半にバタヴィアに移住して1656年にそこを開いたようだ。VOC
バタヴィア政庁は華人やインド人あるいはアラブ人、そしてバリ・マカッサル・ブギス・
ムラユ・ジャワなどの諸種族が種族と文化に従って作るコミュニティに自治権を与え、統
率者を指名してその者に全責任を負わせるカピタン(Kapitan)制度を設けた。コミュニティ
の規模が拡大するとカピタンの下にマヨール(Mayor)更にレトナン(Letnan)という下級統
率者が置かれるようになっていった。
この制度が最後まで明瞭に残されたのが華人をはじめとする外来人社会であり、プリブミ
の諸種族はたいていが地元民と交じり合って地元社会に溶け込んで行く状況を呈した。
[ 続く ]