「南往き街道(20)」(2018年07月05日)

カンプンムラユの初代カピタンはワン・アブドゥル・バグス(Wan Abdul Bagus)だ。かれ
はンチェ・バグスの息子で、タイ南部のパタニで生まれた。頭脳明晰で実生活でも機敏で
果敢な行動を示す優秀さが人口に膾炙し、大勢の追従者がおのずとかれの下に集まって来
た。その時代、すべての男は戦闘要員であり、男の実生活というのは戦闘や闘争が主要な
人生舞台だったことは世界中ほとんど違わないだろう。かれが自分の軍団を引き連れてV
OCの戦闘部隊となるためにバタヴィアへやってきたことはおおいに推察しうるものだ。

かれは最初、バタヴィア政庁で事務職となり、優秀さが認められて通訳や対外折衝、さら
には公式使節となって派遣されるほどの地位を得る。バンテンのスルタン・アグン・ティ
ルタヤサとの戦争、トルノジョヨの叛乱鎮圧戦、カピタンヨンケル(Kapitan Jonker)叛乱
鎮圧戦などにかれはムラユ人軍団を従えて参加した。

老齢になったかれをVOCは西スマトラ鎮撫のための公式使節に任命している。
1661年にはカンプンムラユの地がかれの私有地と認められ、1696年には更に広が
ったムラユ族の土地が再度かれの私有地として認められたようだ。


カンプンムラユから1.5キロほど南にチャワン(Cawang)がある。チャワンという言葉
の響きから「茶碗」の文字を想像するひとがいるかもしれない。その茶碗も中国語に由
来するインドネシア語として認められているのだが、綴りはcawanであり、語尾の響きの
違いを聞き取れるひとはあまり多くないようだ。

ちなみにインドネシア語cawanの語義は1.持ち手(把手)のないコップ、2.飯などを
食べる器、3.コップの下に敷くもの、という語義になっている。日本でも元々は茶を飲
むための器として中国から渡来したために茶碗という名称で定着したものの、その後さま
ざまな用途に使われるようになって、飯を食べるときの器は飯茶碗という奇妙な呼び方が
使われたり、飯碗というロジカルな名称も出現し、大混乱の果てに茶碗で飯を食べるとい
う表現に絞られて現代につながっている。

その一方で、湯呑という名称の器があり、この湯を飲むという言葉がついている容器で茶
を飲むという奇妙奇天烈なことをしているのが日本人だということになりそうだ。湯呑は
湯茶を飲むためのものであるとか、湯呑茶碗の略語だから云々を言うひともあるが、本当
の湯を飲む人は少なく、ほとんどが茶をそれで飲んでいるのだから、茶飲み茶碗のほうが
はるかに自然であるように感じられる。

慣習の力というのはまるで強権独裁者のようなものだ。いや、強権独裁者にもそこまでの
力はあるまい。そればかりか、「前例はすべて正しいのか?」という素朴な疑問がここに
も湧いてくるのである。それを人間の弱点と見るか、それとも生来的な地だとするかによ
って、そのひとの宇宙観・歴史観が決まってくるように思える。閑話休題。[ 続く ]