「インドネシア語化の原則?」(2018年07月05日)

ライター: 語義オブザーバー、サムスディン・ブルリアン
ソース: 2011年5月8日付けコンパス紙 "Managemen"

文字文化に突入した民族として外国語の取り込みは発音でなく表記に基づくことが期待さ
れているという、先週のこのコラムでアントン・ムリヨノ氏が行った再確認はとても重要
なことである。文明と文字は切り離すことのできないものだ。この地上に発生したわれわ
れが文明として認知しているもののすべては文字文明だった。われわれの祖先であるムラ
ユ文化への崇敬はそれとして、自分独自の文字を作り出そうとしなかったムラユ文化を世
界は文明と見なしていない。あるいは少なくとも、文明として重要なものとは見ていない
のだ。

しかし残念なことに、原則に従うべきだとおっしゃる言語オブザーバー氏が提示された借
用語の中のいくつかも同類なのである。manajemenという形で取り込まれた英単語mana-
gementは、表記は望むが音も欲しいという分裂姿勢を示している。imajinasiやjeniusと
いうような、その仲間もたくさんいる。厳密な意味で原則に従ったなら、managemen, 
imaginasi, genius...となるだろうに。別の例のaransemenはarangemen(発音aran-
gemen)となるべきだろう。ソフト[g](jもしくはzの音)を含むラテン文字の単語を取り
込むとき、われわれはもちろん分裂症気味になってしまう。

massとその派生語を取り込む際の揺れも顕著だ。KBBIがmassaという単語を標準イ
ンドネシア語として取り上げたときに発音より表記が優先されたという見方には疑問が生
じる。masifというエントリーがあってmassifでないことから、masaという単語が既存し
ていたためにmassaとされた印象が窺われるのである。tarikという単語が先にあったため
にtarikhと綴られた例にも同じ現象が見られる。派生語tawarikがtawarikhより標準的であ
るとされている理由はその辺りにあるのではあるまいか。bankという単語がその綴りにな
っているのも、bangの存在が混乱を促進させることを懸念したためではないだろうか。
bankrutという単語はなく、bangkrutが標準インドネシア語なのである。


元の綴りが変えられた借用語は、必ずしも発音に合わせるためにそうなったのでなくて、
元の綴りに使われている文字をわれわれが継子扱いしたためと思われる例も少なくない。

maximumをmaksimumと綴らなければならない論理的理由は見つからない。external, 
experimen, axioma, exklusif, exekutif, komplex, klimaxなどの綴りをわれわれが使わない
のは、本当はとても奇妙なことなのだ。同様に、qualitasやquantumと綴って、何がいけ
ないのだろう?瓶詰飲用水メーカーが-quaの綴りを堂々と使い、だれひとりとしてそれに
違和感を感じていないのは事実ではないか。

歯に関連する商品の多くが-dentという綴りで終わる商品名を怖じずにつけているにも関
わらず、consistentやpresidentはkonsisten、presidenとなった。連続するふたつの子音、
特に語尾に出現するもの、をインドネシア人の舌は発音できないと考えられているからだ
ろう。その正誤はさておいて、それは単に発音できると考えられる表記に綴りを合わせて
行こうとする欲求の存在を証明しているにすぎない。つまり、発音が表記より優先されて
いるのである。

もちろん発音より表記を優先するという原理を押し立てただけで問題が解決するというも
のでもないし、反対に新たな問題があれこれ噴出してくるだろう。ましてや、それを金科
玉条にするべきでもない。好むと好まざるとに関わらず、一部の綴りは取り込みプロセス
の中で変更されざるを得ないのだから。

英語の-cc-綴り(aksesori-asesori-acesori?)や-rd-綴り(standar-standard, standarisasi-
standardisasi?)の変更、他にも類似のものは山ほどあるが、この問題ももちろん単純なも
のでない。ただ、もっとも重要なのは、古い語義の伝統と新しい語義の創出における思考
の的確さだ。そして結局のところは、言語オーソリティでなく、広範な言語使用者が決め
ることなのである。