「南往き街道(21)」(2018年07月06日) もう少し戯言を続けると、インドネシア語の/w/の文字は、時に/b/の異音として使われ た。次のような言葉にその例を見ることができる。 wulu ⇒ bulu, wesi ⇒ besi, watu ⇒ batu, uwi ⇒ ubi もしこれがCawangに応用できるものであるなら、現代インドネシア語のcabangという言 葉が浮かび上がってくる。確かにこのチャワン地区で道路は分岐し、近辺の川も枝分かれ しているようだから、語源をそこにたどることもできそうなのだが、歴史家は違うと言う。 カンプンムラユはこのチャワン地区まで伸びていて、そこに作られたムラユ人コミュニテ ィを統率したレトナンムラユのンチ・アワン(Enci Awang)がチャワンの語源なのだそうだ。 ンチアワンがチャワンとなったという説は確かに説得力がある。 メステルからカンプンムラユを通ってチャワンに至る道路は現在オティスタ通り(Jl OTto ISkandar dinaTA = Jl OTISTA)となっているが、この道路沿いの地域はジャカルタの街中 で都市化が早く進行したエリアだった。歴史家の談によれば、1960年代でさえ、ジャ カルタの中で都市化したエリアは限られていて、他は地方の農村をそのまま移してきたよ うなカンプンあるいは無人の原野ばかりだったらしい。 カンプンの住民は自分が都市の一部であるという意識をほとんど持っていない。ジャカル タでかれらは田舎の生活習慣と社会行動をそのまま継続していた。だからジャカルタが巨 大カンプン(kampung raksasa)であるという表現は比較的最近まで続いていた。 カンプン(kampung)の語源はポルトガル語のcampoであるというのがほぼ定説になってい る。昔はカンポン(kampong)と綴られてそう読まれることもあった。今でも?時折、カンポ ンという発音を耳にすることもある。 その定説が当たっているなら、ひとつのカリカチュアが浮かび上がってくる。石造りの巨 大堅固な要塞に住んでいるポルトガル人が要塞の外を取り巻いている原野をカンポと呼び、 原野の中に点在する陋屋の集まった集落を指さしてカンポの民と呼んだことはあっただろ う。それを耳にした原住民が、ポルトガル人は集落のことをカンポンと呼んでいると理解 して、その言葉を広めたであろうことが想像されるのである。 1960年代に都市化の進んでいたジャカルタ市内エリアは、カリブサール両岸の旧バタ ヴィア地区、グロドッ地区、ガンビル地区、ジャティヌガラ地区からオティスタ通り沿い の一帯、メンテン地区、クバヨランバル地区がそのすべてだったそうだ。わたしも70年 代前半にオティスタ通りをよく通過し、そこに住んでいたひとを訪ねたこともあったが、 当時わたしがジャカルタの中心部と思い込んでいたガンビル〜メンテンにかけてのエリア から離れたこんな場所が意外に充実した地区であることを知って、驚いた経験がある。 [ 続く ]