「ジャカルタ最初のヒンドゥプラ」(2018年07月06日)

1970年代にジャカルタに住むバリ人、特に国軍勤務のひとびとがプラ(ヒンドゥ教寺
院)を建設した。チリンチン(Cilingcing)地区に設けられたプラダルムプルナジャティタ
ンジュンプリ(Pura Dalem Purna Jati Tanjung Puri)がジャカルタ最初のプラだ。5千平
米の面積を持つこのプラはプラダルム、すなわちシワ神の神殿に当たる。

西イリアン解放戦争が行われていた当時、精強を誇るバリ人部隊が戦場に派遣されるため
にジャカルタに到着した。ところが、かれらが出発の時期を待っている間に、国連が19
63年に西イリアンをインドネシア領であると認定したのだ。かれらの戦場投入計画は中
止された。かれらをバリに戻すよりもジャカルタで勤務させる方が都合がよいと国軍上層
部が判断したことから、バリヒンドゥの祝祭を行う場所をジャカルタに持つ必要性が生ま
れた。しかし、もっと切実な問題が発生したのだ。かれらの大半はまだ若く、家庭を持っ
ていなかった。ジャカルタ勤務を数年経過すれば、身を固める動きが起こるようになる。

ジャカルタで他種族の女性を妻にした者もあれば、同じバリ人女性を妻にした者もある。
そして子供が死亡する家庭が出た。ヒンドゥダルマは、墓地があるところには祈祷の場所、
つまり寺院がなければならないと定めている。

かれらはジャカルタにプラを建てる動きを開始した。1968年、都庁はチリンチンにヒ
ンドゥ寺院を建てる許可申請を承認した。建設工事は1971年に開始され、寄付金を集
めながら歳月をかけて1974年に工事が完了した。


もちろん、かれらバリ出身の軍人たちがジャカルタに定住する以前から、バリ人ヒンドゥ
教徒はジャカルタにいて、プラをジャカルタに建てる話も出されていた。しかしそれが切
実な問題になかなかならなかったのである。というのも、かれらの多くは政府高官や実業
界有力者であり、バリヒンドゥの祝祭日にかれらは故郷へ帰って親戚と一緒に祝うのだし、
葬儀も遺体をバリに運んでガベン(ngaben)を行うことを当然としていたのだから。

そのころのスカルノ大統領は反対に、中央ジャカルタ市バンテン広場南側の現在ホテルボ
ロブドゥルが建っている土地をヒンドゥ教仏教のための寺院建設用地にする意向を持ち、
その建設のための援助金を政府が用意するところまで段取りをつけていたのである。とこ
ろがジャカルタのバリ人の方が積極的でなかったという皮肉な話になっている。

この問題の切実さは軍人の、しかも経済的にあまり豊かでない下士官級のひとたちの間で
つのって行った。こうして実現したチリンチンのプラダルムは、ジャカルタのバリ人の間
で「伍長プラ」という別称で呼ばれた。

実は、チリンチンのこのプラダルムが建っている土地は、湿地が埋め立てられたものだ。
必然的に水はけは悪く、しかも地盤沈降が進んでいるため、バンジルの被害は当たり前の
ようになっている。もちろん対策工事は1990〜91年に地上げが行われ、2010年
にも老朽化した建物の改修と併せて地上げが再度行われている。これはジャカルタ北岸と
いう土地が持つ宿命のようだ。

ジャカルタで初のプラができてから、ジャボデタベッ各地にプラが次々と建てられて行っ
た。2014年データによれば、北ジャカルタ市には9カ所、中央ジャカルタ市8カ所、
東ジャカルタ市5カ所、南ジャカルタ市4カ所、西ジャカルタ市1カ所の合計27のヒン
ドゥ寺院がジャカルタ市内にある。