「南往き街道(22)」(2018年07月09日)

チャワンの南はチリリタン(Cililitan)だ。都内環状道路を超えたところからデウィサルティ
カ通りはチリリタンのPGC(チリリタン卸売市場)三叉路まで来てボゴール街道にバト
ンタッチする。

チリリタン村は元々東のチピナン川と西のチリウン川にはさまれたエリアで、チピナン川
の支流にチリリタンと呼ばれる川があった。川沿いにリリタンクトゥ(lilitan kutu)と呼ば
れるイラクサ科の木質植物で、学名をPipturus velutinus Wedd.と称するものが大量に生
えていたことが川の名前の由来であり、それが地域名称となった。


18世紀半ばごろには、チリリタン一帯はピーテル・ファン・デ・フェルデ(Pieter van 
de Velde)が私有地にした広大な土地の一部をなしていた。1740年10月8〜10日
に起こった華人暴動とVOC側の華人大殺戮事件の責任を問われてカピタンチナのニー・
フーコン(Ni Hoe Kong)がアンボイナに流刑されたとき、ニー・フーコンの持っていたメ
ステルの南側に散らばる土地をファン・デ・フェルデが手に入れた。そのあとかれは17
50年ごろ、自分の所有地をひとつにまとめようとして、周辺の土地を買い集めて広大な
広さを持つ私有地を作り上げたのである。

タンジュンオースト(Tandjoeng Oost)と呼ばれたその私有地は、西はタンジュンバラッ
(Tanjung Barat)からクラマッジャティに至る広範な土地をカバーしていた。タンジュン
オーストという名称は現在タンジュンティムール(Tanjung Timur)というインドネシア語
の形で、古い地名として使われているだけのようだ。タンジュンバラッが町名として存在
し、道路名称にも使われているのと対照的な扱いになっている。

ピーテル・ファン・デ・フェルデはその土地をアドリアン・ジュベル(Adrian Jubels)に売
却し、この二代目地主の没後、1763年にヤコブス・ヨハネス・クラアン(Jacobus Jo-
hannes Craan)がそれを買った。クラアンが亡くなるとその土地は娘婿のウィレム・フィ
ンセンツ・エルヴェシウス・ファン・リームスデイク(Willem Vincent Helvetius van 
Riemsdjik)に引き継がれた。この婿はジェレミアス・ファン・リームスデイク第30代総
督の息子である。その後、この家系はタンジュンオーストに建てた大邸宅に代々住んで、
第二次大戦の日本軍進攻を迎えることになる。

ウィレム・フィンセンツ・エルヴェシウスは17歳でオンルスト島の行政官に就任するほ
どの処世に長けた人物で、その裏に父親の威光が輝いていたことは言うまでもないのだが、
諸方面から金がうなりながら集まってくるというオンルスト島をはじめ、あれこれの関連
から集めた膨大な資金力で、かれはタナアバン、チビノン、チマンギス、チアンペア(Ci-
ampea)、チブンブラン (Cibungbulan)、サデン (Sadeng)などに土地を持つ大地主となっ
た。タンジュンオーストが著しい経済発展を示したのは当然の帰結だ。

ウィレム・フィンセンツの息子のダニエル・コルネリウス・エルベシウス(Daniel Corne-
lius Helvetius)はタンジュンオーストの広大な土地を農業と牧畜のセンターにしようと考
えてその計画を推進し、娘のディナ・コルネリア(Dina Cornelia)の夫チャリン・アメント
(Tjalling Ament)は1860年から舅の遺志を継いでその地を6千頭の乳牛を養う大牧場
に育て上げた。タンジュンオースト私有地をオランダ人はフルンフェルド(Groeneveld)と
呼んでいたことから、19世紀後半の時代にバタヴィア住民の間でフルンフェルド牛乳の
名を知らない者はいなかったらしい。[ 続く ]