「南往き街道(23)」(2018年07月10日)

1775年にヘンドリック・ラウレンス・ファン・デル・クラップ(Hendrik Laurens van 
der Crap)がチリリタンに建てたカントリーハウスがある。250年近い歳月を乗り越え
て現代にまで残されているその大邸宅は、クラマッジャティの警察病院の裏手にあり、老
朽化して目を覆いたくなるほどの惨状だ。

9百平米の長方形の床を持つ建物は二階建てで、一階と二階にそれぞれ多数の部屋を持ち、
壁には15の扉と12の窓を見ることができる。二階に上る階段の壁には「Hendrik L Van
der Crap 1775」の文字がくっきりと残されている。

チリリタンの家(Rumah Cililitan)と呼ばれているその邸宅に関するインドネシア語情報を
読むと、タンジュンオースト私有地は何人もの地主が交替したあげく、当時バタヴィアの
実業家で大富豪のひとりだった、ヘンドリック・ラウレンス・ファン・デル・クラップ
(Hendrik Laurens van der Crap)が手に入れた、と書かれている。

かれはカンプンマカッサルで農園を開き、1775年にカントリーハウスを建てて、毎週
末家族を連れて保養に来るという使い方をしていたようだ。当時のバタヴィアは城壁に囲
まれたカリブサールの両岸一帯であり、かれらはそこの自邸から2〜4頭だての馬車でジ
ャヤカルタ通りを抜けてグヌンサハリ通りを下り、メステルをも超えてはるかに草深いチ
リリタンまでやってきていたということらしい。

18世紀から19世紀半ばごろの時代、チリリタン〜クラマッジャティ〜タンジュンバラ
ッ〜チジャントゥン一帯にかけては、オランダ人があちこちにカントリーハウスを建てて
保養に来ていた。現代の首都圏住民がプンチャッへ保養に行くようなことが、数百年前は
旧バタヴィアの城壁の中からチリリタン一帯へ遊びに出かけていく形で行われていたとい
うことなのだろう。

最後のオーナーは1925年にその大邸宅をバタヴィア政庁に売った。日本軍政期には日
本軍が接収してそこを兵器庫に使っていたそうだ。別の説によれば、カンプンマカッサル
に作られた捕虜収容キャンプ司令官タナカ大尉がそこを宿舎にしていたという説明もある。

いまは国家警察の資産となっていて、その建物は国家警察職員家族寮として使われており、
18家族が家賃を払って住んでいる。だが建物内の大広間に住む者はおらず、近隣に住む
古老によれば、そこは異界との接点になっているため異界の者がよく出没しており、その
不気味さに耐えてそこに住もうと思う警察職員家族はいない、との話だ。古老はまた、か
つてヴィラノヴァ(Villa Nova)と呼ばれていたこのカントリーハウスを建てたファン・デ
ル・クラップはVOCの軍人であり、海賊活動で巨大な富を築いたとも物語っている。
[ 続く ]