「南往き街道(28)」(2018年07月17日)

東ジャカルタ市クラマッジャティ郡の中にチョンデッ(Condet)地区がある。チョンデッ
地区はチョンデッラヤ通りが通っているエリアで、バレカンバン(Bale Kambang)町・バ
トゥアンパル(Batu Ampar)町・グドン(Gedong)町の三町から成っている。チョンデッが
行政区画名称になっていないとはいえ、先史時代から人類が居住していたエリアであり、
その古さのゆえに知名度の高い名称になっている。

この地区からは、紀元前1千〜1千5百年ごろと見られる石器の斧やのみ、ドリルなどが
発見され、別の調査では銅器も見つかっている。更に町名になっているバレカンバンとは
王の保養所、バトゥアンパルは生贄を捧げるための平で大きな石を意味しており、この土
地がただの原野でなかったことをそれらが示しているようだ。


チョンデッという言葉の由来はチリウン川支流のチオンデッ(Ci Ondet)川から来ているそ
うで、オンデッそのものの意味は五月茶という木の名称だ。

チョンデッの地名が最初に記された古文書は、第18代総督に就任する直前の1709年
9月24日にアブラハム・ファン・リーベーク(Abraham van Riebeeck)が書き残した記
録で、「パルンコンバレ・バトゥジャヤ・デポッ・スリンシンなどのわが所有地を通過し
て、チオンデッ川の上流に向かう。」という記載が見られる。

更にスルタン・アグン・ティルタヤサの王子パゲラン・プルバヤが最終流刑地のインドの
ナガパッナムに出発する際に残した遺言状には、「チョンデッにあるわが所有の家と水牛
を、残して行く妻と子供に贈与する。」と書かれており、1716年4月25日付けでオ
ランダ人公証人がその遺言状に公正証明を与えている。

1753年6月8日付けのバタヴィア総督決定書には、タンジュンオースト私有地の一部
をなすチョンデッの土地816モルヘン(およそ5万2千ヘクタール)を8百リンギッで
ディーデリック・ウィレム・フレイヤー(Diederik Willem Freijer)に売却する、という文
章が見られる。


チョンデッラヤ通り南詰のTBシマトゥパン通り(Jl TB Simatupang)三叉路から5百メー
トルほど北上したチョンデッラヤ通り55番地にある首都軍管区基幹連隊演習司令部
(Markas Latihan Rindam Kodam Jaya)の向かいに、昔はさぞ権勢を誇ったであろうと
思われる屋敷がある。

1756年にバタヴィア参事会メンバーのフィンセンツ・リームスデイクが農園を設け、
カントリーハウスを建てて保養に使った。そのカントリーハウスがこのタンジュンティム
ールの家(Rumah Tanjung Timur)と呼ばれている屋敷だ。タンジュンティムールの家とい
う表現はかつてオランダ人が呼んだタンジュンオーストハイス(Tandjong-Oost Huis)に由
来しており、別名フルンフェルドハイスとも言う。[ 続く ]