「南往き街道(29)」(2018年07月18日)

チョンデッの南にあるグドン(Gedong)という地名はグドゥン(Gedung=建物)の古い発音
で、石やセメントで作られた豪壮な恒久的建物を指す言葉だった。現代ならビルを指して
使われている言葉だが、高層ビルなど影も形もなかった時代には、吹けば飛ぶような陋屋
の合間に出現した平屋やせいぜい三階建ての大邸宅がグドンの名で呼ばれた。「お屋敷」
という言葉がその訳語にふさわしい時代の話だ。今でもそのグドゥンという標準形をグド
ンと発音するひともいる。

この種の音韻変化は口承文化で容易に起こる。外国語を文字で学ぶことが習慣化している
日本人は、単語の文字が一字異なっていれば別のものという理解が普通になっているため、
インドネシア語のような口承文化を基盤に置く言語の学習者にとって難しい要素となって
いるが、要は自分の常識を変えればよいだけの話であるとも言える。

benarがbenerと書かれているのに直面すると、辞書にない言葉だとして理解を諦めてしま
うひとが見受けられるのだが、インドネシア人の間で生活してみると、かれらがブナール
と発音するべき時にブヌールという発音をしているケースに頻繁に出会う。そのブヌール
という音が文字化されたときに、benerという表記になって出現するのである。

特に/a/の音は弱母音化して/e/に変化する傾向が顕著で、これはムラユ語が持っている特
徴だろうと思われるのだが、この意味からも、インドネシア語の学習というのはインドネ
シア語による生活体験によって完成していく傾向の強い言語だと言えそうだ。その点を取
り上げるなら、日本語も実は同じような特徴を持っているとわたしは見ている。

日本人も音韻変化を好んで行う民族であり、日本語を学びたい外国人の多くが文字から日
本語を学んでいるのだが、それだけではなかなか完成度が高まらないだろうなというのが
わたしの直観だ。ところが日本人が日本人自らのために確立させた(あるいは慣習化させ
たと言うべきか)外国語学習方法は固有の体質と異なる性格のものになっているのである。

インドネシア語をそのメソッドに載せた場合、あまり効率的でない面がポロポロとこぼれ
落ちてくるだろう、ということをわたしは主張している。[ 続く ]