「アジア大会の遺産」(2018年07月18日)

1962年8月に第4回アジア大会がジャカルタで開催された。2018年のジャカルタ
での開催はこれで二度目になる。半世紀以上も前の前回の大会は、スカルノ大統領による
国威発揚期に当たっており、ジャカルタの都市建設もそれに併せて進められた。

メイン会場としてスナヤン地区に建てられたブンカルノスポーツコンプレックス(Gelora 
Bung Karno)はそのときの成果であり、ソ連の援助がその実現に大きく貢献した。デザイ
ンはモスクワのルジニキ競技場に似せたものである。

270Haという広大な敷地を確保するため、政府はそこにあったカンプンをおよそ5キ
ロ離れたトゥブッ(Tebet)と10キロ離れたプロマス(Pulomas)に移した。当時まだ小集落
の散在する畑地と水田がほとんどを占めていたそれらの地区は、5万人の都市貧困層を収
容する受け皿とされた。それらの地区はその後ミドルクラス住宅地区として発展し、その
中の一部地区は高級住宅地にグレードアップしたところもある。プロマスへの移転はデン
マーク政府からの援助だった。この話はトゥブッへの移転の陰に隠れてあまり知られてい
ないようだ。

そのトゥブットやプロマスとスナヤンを結ぶ道路も、そのときにソ連の援助で作られた。
ただしタンジュンプリオッ港とチャワンを結ぶジャカルタバイパスとして完成するのは1
963年のことであり、ガトッスブロト通りがスマンギ立体交差を擁すようになるのも後
のことだ。

都心部には、国際級のホテルと高層ビルのデパートが建てられた。日本の戦争賠償金で建
てられたホテルインドネシアとサリナデパートビルだ。そしてホテル表を通るタムリン通
りに設けられたロータリーには、モニュメントが建てられた。歓迎の塔と名付けられたモ
ニュメントはスカルノお気に入り芸術家のひとり、ヘン・ガントゥン(Henk Ngantung)の
デザインによる。

交通機関については、三輪車ダイハツミゼットとマツダボンゴを小型乗合バスに仕立てて、
街中の定常ルートを走らせた。ミゼットはベモ(Bemo=BEcak MOtor)、ボンゴは石ケン
箱(Kotak Sabun)という愛称で庶民に親しまれた。

この二度目のアジア大会には、何が後世に残ってくれるだろうか。