「南往き街道(30)」(2018年07月19日) さて、グドン地区の語源となったその「お屋敷」がヴィラノヴァと呼ばれた地主の大邸宅 だったという説明がある。 リームスデイクのカントリーハウスが当時はそのグドン地区における唯一の「お屋敷」で あったことから、フルンフェルドにあるプリブミ集落はカンプングドンと呼ばれ、それが 現在グドン町という公式行政区名称として残っているのだそうだ。カンプングドンという 名の集落もいまだに存在している。 バイテンゾルフとバタヴィアを往復する総督や高官たちが、往来途上でヴィラノヴァに立 ち寄っていたことを示す記録がたくさん残っている。ただ、ファン・デル・クラップのカ ントリーハウスの話でちょっと触れたように、ヴィラノヴァが「チリリタンの家」だった のか、それとも「フルンフェルドの家」のどちらのカントリーハウスだったのかというこ とに関して、インドネシア語情報の中に少々混乱が見受けられるように思われる。 ある記事では、レディ・ロリンソンというイギリス貴族が地主として住んでいるチリリタ ンの家がヴィラノヴァだと述べている一方、別の記事ではチョンデッ住民に苛斂誅求を課 した地主が住んでいるタンジュンオーストの家がヴィラノヴァだったと書かれている。 この後で物語る予定のントン・グンドゥッ(Entong Gendut)の叛乱を読めば、ある程度の 筋道は立つような気がするのだが、それですら、それらの情報からだけではヴィラノヴァ がどちらのカントリーハウスだったのかを断定する確証は手に入らない。 総督や高官たちが両方に立ち寄っていた可能性ももちろんあってしかるべきだが、両方が ヴィラノヴァと呼ばれていたはずがないし、1733年から1750年までバンテンスル タン国の王位に就いたスルタン・ムハンマッ・シファ・ザイヌラリフィン(Sultan Muham- mad Syifa Zainularifin)の王妃で、その後継者指名の争いに影響力を振るったシャリファ ・ファティマ(Syarifah Fatimah)がVOCのバックアップを得ようとして1749年に時 の総督ファン・イムホフとの秘密会見をヴィラノヴァで行ったという話も、その混乱に拍 車をかけるような内容になっている。その両カントリーハウスが作られたと言われている 年と比べてみるなら、更に別の候補者が躍り出て来そうな気配が立ち昇るではないか。 そのスルタン位継承の争いは1750年にキヤイ・タパの起こした争乱となって結実して いる。才色兼備を謳われたシャリファ・ファティマ自身もその争乱の責を問われてスリブ 群島のエダム島に流刑され、流刑先で没した。[ 続く ]