「南往き街道(33)」(2018年07月24日)

「オラがカンプンのジャゴアン」というのは、住民が共同体の中でその者を持ち上げ、頼
り、親愛を向ける、という行動の中に形成されたもので、任命されるものではない。ただ
しジャゴアンというのも一般名称であることから、暴力好きで他人を虐げることの好きな
プンチャッシラッの使い手も同じようにジャゴアンと呼ばれる。住民を搾取するばかりで
保護しようとしないジャゴアンに、住民は背を向けることしかできない。

悪徳保安官が町民をいじめ、町民は正義感あふれる流れ者の拳銃使いがやってきて悪徳保
安官を町から叩き出してくれる日を待ち望むようなことがブタウィのカンプンにもあった
にちがいない。

悪徳ジャゴアンは金持ちに雇われて用心棒になったり、暴力を使う汚れ仕事を行う取り巻
きのひとりになったりもした。そのような仕事はcentengやtukang pukul あるいはtukang 
maen pukulan と呼ばれた。centengは福建語の親丁に由来しているが、原意から離れた
殴り屋としてムラユ語に取り込まれている。tukang pukul はそのものズバリの殴り屋だ。


タングラン・チオマス・ブカシ・チリリタンなどに広大な私有地を持つ地主たちは、その
ような殴り屋を大勢抱えて領民を搾取する手先に使った。言うまでもなく、地主の指示を
現場で実行班に実現させるための体制が作られ、要になる者は親方の地位に就いてマンド
ル(mandor)と呼ばれた。こうなってくれば、やくざ組織と見まがうばかりである。

バタヴィアやその周辺の西ジャワ地方では、私有地制度が活発に営まれた。私有地の地主
はあたかも封建領主のように、住民を私有の人間として奴隷のように扱い、税を取り立て、
労役を課した。バタヴィア政庁は私有地を治外法権扱いし、私有地の中で地主が行う非人
道的な行為に公権力を及ぼすことをしなかった。

私有地がどのようにして設けられ、誰がその地主に納まったかという歴史を見るなら、そ
の現象は十分な確信をもってわれわれに迫ってくるだろう。VOCとその中でうごめいた
オランダ人が、どれほど富と支配権力をこの南洋の地に求めたのか、会社は会社で、社員
は社員で、考え付くだけのあらゆる手練手管でその理想へのアプローチを推進していった
か、ということを如実に示す具体例のひとつがそれであったに違いない。

地主がまるで封建領主のように振舞っていたことは、別の作品「ロー・フェンクイ」から
もうかがい知ることができる。「ロー・フェンクイ」は下をご参照ください。
http://indojoho.ciao.jp/koreg/libkoei.html
[ 続く ]