「南往き街道(34)」(2018年07月25日)

1912年ごろ、ヴィラノヴァに住む女主人レディ・ロリンソン(Lady Rollinson)は住民
に対する苛斂誅求に手心を加えなかった、という記事がネット上にたくさん出現する。こ
の女性地主がイギリス人貴族であるというものやフルネームがLady Rollinson Van Der 
Passeとなっている情報、更にはレディ・ロリンソンがヴィラノヴァと呼ばれたチリリタ
ンのカントリーハウスに住む地主で、そこでのパーティに招かれたフルンフェルドの家の
地主の車に投石が行われた、といったものすら登場するため、その辺りの状況は錯綜をき
わめている。

地主が誰であったにせよ、領民に対する過酷な苛斂誅求に反抗して立ち上がったントン・
グンドゥッ(Entong Gendut)はチョンデッのジャゴアンとされており、チリリタンの住民
でないことがわかる。チョンデッ地区の地主の館はフルンフェルドの家であり、だからこ
そチリリタンの家を訪れたフルンフェルドの家に住む地主の車を襲うことはありえても、
チリリタンの家を襲撃する必然性はないようにわたしには思われるのである。

ただしその辺りの状況も諸説紛々としており、本当はどこでどのような状況が展開された
のかということに関して、わたしの焦点がなかなか定まらないのである。書き残すという
習慣を持たないひとびとは口承の民であり、その性質上、このようになることは避けられ
ないに違いない。とりあえずは、広い視野の中でこの事件を捉えていると思われる解説に
従って、ストーリーを組み立ててみることにする。


地主はチョンデッ住民に対し、毎週25センの税を取り立てた。そのころはコメ1キロが
4センだったそうで、これは重税と言っておかしくないだろう。そのすべてが植民地政庁
に納められるものでないのは明白であり、国税がその中のどれほどのシェアだったのかは
よく分からない。地主は政庁に対して地代と収穫の納税および労役に労働力を差し出す義
務を負っていたが、地主自身も領民から同じような名分のものを徴収していたから領民に
とってはダブルパンチであり、おまけに地主の徴収には何の規制もかけられなかったよう
だから、まるで中世ヨーロッパの暗黒時代のようなありさまが20世紀前半まで続いてい
た。

取り立てに回るのは地主に雇われているチェンテンやマンドルたちで、暴力の威嚇が使わ
れるのが常であり、どうしても払えない家に対しては地主の持つ田畑を一週間耕作させる
課役が与えられたり、あるいは収穫を禁止されたこともあったらしいが、そのうち裁判に
かけるスタイルが一般化した。[ 続く ]