「南往き街道(35)」(2018年07月26日)

私有地に関する新たな法令が1912年に施行され、地主は税を納めない農民への裁判権
を与えられたことから、地代や住民税の未払いあるいは労役代償の金納などに関連して、
1913年に2千件、14年5百件、15年3百件の裁判が行われた。判決は滞納金に罰
金が加えられた上、裁判費用が敗訴者(つまりは滞納者)の負担にされ、期日までに納め
なければ私財没収や売却、あるいは焼却が命じられた。金がないために滞納したのだから、
そんな判決に対して無い袖を振ることなでできはしない。農民は破産し、どこかの誰かを
頼って無一物で故郷を離れるしかなかった。
陋屋の中には一物もない、という家などは火をかけて燃やされるのが普通だったようだ。

ただ、領主は奴隷扱いできる領民がいてこそ繁栄を期待できるのだという原理にそぐわな
いように思われるその状況がわたしには今一つ釈然としない。


チョンデッでは、タバという名の老農夫がメステルの地方裁判所で行われた裁判で7.2
0フローリンと諸費用の納付を命じられた。期日中に納めない場合は資産が売却されて納
付に充当される。

1916年3月7日、地主のチェンテンたちを従えた強制執行の役人たちがタバの家にや
ってきた。多数の地元民が北隣の家に集まって来て、罵りや呪いの叫び声をあげたが、何
をすることもできない。法的処理はつつがなく進められた。

チョンデッのジャゴアンであるントン・グンドゥッも現場を遠巻きにして見守るひとびと
の中にいた。そのとき、かれの内面でひとつの爆発が起こったにちがいない。「もう許せ
ない。」という決意が弾けたのだ。

タバの資産は3月15日にマンドルのひとりが4.50フローリンで買い取った。行政官
と地主、そしてかれらに使われているチェンテンやマンドルたちが法律を盾にして行うゲ
ームの被害者は、団結を余儀なくされた。自分たちの身を守るためにントン・グンドゥッ
が組織する自警団に参加する住民が増えた。この自警団には近隣カンプンのジャゴアンた
ちも横のつながりを示した。


ントンというのはブタウィ語で男児を意味する言葉だ。グンドゥッは「デブ」の意味で、
これらは明らかにあだ名なのだが、本名や生年月日、出生地などの情報が見つからない。
この人物については個人情報がなく、あだ名だけでヒーローになっている。

ントン・グンドゥッはその人望を見込まれて地主がチョンデッの公認副王(要するに地元
の大親分)にしてやろうという話をもちかけたとき、けんもほろろに断ったという談や、
子供のころの異才を物語る話として、力の強いガキ大将たち数人に力いっぱい自分の腹を
殴らせたあともケロッとした涼しい表情でそこに立っていたなどという地元の古老たちの
回想談もあり、またかれ自身の子供二男一女の孫がまだ地元にいて、祖父の称揚譚をいろ
んな人から聞いて育ってきているものの、先祖に誰がおり、誰がどこで名の知られた誰そ
れとどういう関係を持ち、家系がどうであるというような情報がまったく記事にされてい
ないのも、インドネシアでは珍しいケースではないかという気がわたしにはする。
[ 続く ]