「南往き街道(39)」(2018年08月01日) この事件のあと、政庁はチョンデッ住民に強い疑いを抱いて厳しい取調べを続けた。何人 もの住民が連行されたあと戻ってこなかったことが明らかになると、大勢の男たちが故郷 のチョンデッから姿を消した。バタヴィアの街中でも、チョンデッ出身であることを名乗 る者がいなくなったという。 このントン・グンドゥッの蜂起事件というのは、長い前置きでその意味合いがくどくどと 述べられているわりに、事件そのものはきわめて単純な展開であり、実にあっさりと幕を 閉じた印象が強い。 軍事力とは全く無縁の私有地領民で且つ農民層の民衆がジャゴアンの指揮下に蜂起したと いう内容が、植民地政庁上層部に恐怖感を呼び起こしたのかもしれない。その恐怖感がエ コーとなって事件後のチョンデッ住民に対する激しい弾圧に姿を変えたと見るのは、うが ちすぎだろうか? さて、チリリタンの家とフルンフェルドの家の双方がヴィラノヴァという名称で呼ばれて いることに端を発する混乱を整理してみたい。 グドン・チョンデッ・パサルボ一帯の大地主はフルンフェルドの家に住むアメント家の当 主であり、チョンデッ住民に苛斂誅求を課したために住民蜂起を誘った地主というのはか れだったように思われる。 つまりレディ・ロリンソンはチリリタンのもっと狭い地域の地主ではあっても、チョンデ ッまでカバーするほどの地主でなかったということであり、チョンデッ住民が直接的に憎 悪を向ける対象でなかったように思われる。それはタンジュンオーストの地主が住むフル ンフェルドの家が先に建てられ、チリリタンの家がもっと後で建てられていることからも うかがい知ることができそうだ。 その意味から、格式はフルンフェルドの家の方が上であって、総督や高官が立ち寄る可能 性はそちらの方が高かっただろう。だからと言って、それとヴィラノヴァを結びつける根 拠にはできない。むしろ言葉の原意から、後で建てられたチリリタンの家がそう呼ばれた 可能性だって否定できないのだから。[ 続く ]