「南往き街道(42)」(2018年08月06日)

1852年に結婚したダニエル・コルネリスは1870年に四男三女を連れてヨーロッパ
のブリュッセルに引っ越した。子供の教育が主要な目的であったようだ。そのとき長男の
チャリン・ディーデリック(Tjalling Diederik Sjoerd Auke Ament)は16歳、次男のECC
アメント(Eduard Corneille Collett Ament)は14歳、末っ子のヨハンナはまだ1歳だっ
た。

1870年4月8日付けヤファボーデ(Java Bode)紙に掲載された広告には、タンジュン
オーストとチブブルの土地のコンセッション希望者はプカヨンの管理人HMアメント
(Hendrikus Michiel Ament)に申し出るように、と書かれている。

ヘンドリクス・ミヒエルはダニエル・コルネリスの弟であり、父親が息子たちをあちこち
の土地の地主にしていたことが分かる。


一家は再びオランダ領東インドに帰郷した。一家は本拠地のチルボンに戻ったが、次男の
ECCアメントはバイテンゾルフ北郊のチルアル(Ciluar)でビジネスキャリアを開始する。
かれは1873年にアントワープのビジネス学校を卒業し、更にロンドンでもう一年ビジ
ネスを学んでから、現場に放されたわけだ。

そのうちに父親のダニエル・コルネリスがバタヴィアに移り住み、1878年にECCアメ
ントをチブブルの管理人に、兄のチャリン・ディーデリックをタンジュンオーストの管理
人に任じて、各地区を管理させた。

チャリン・アメントはタンジュンオーストで製糖事業を試みたがうまく行かず、チルボン
へ戻ってしまったため、ECCアメントが1883年からタンジュンオーストとチブブルの
二地区を管理するようになる。かれはタンジュンオーストに灌漑設備を設ける工事を行っ
た。

1888年10月16日のバタヴィア商業ジャーナル紙に、タンジュンオーストとチブブ
ルでの狩猟を禁止するという通達が掲載されている。通達者は管理人アメントと記されて
いた。


当時71歳のECCアメントアメントがチブブルにおける50年間の歴史を祝う祝賀会を1
928年4月1日に開催したとき、近隣の諸地主から政財界上層部に至る3百人もの貴顕
紳士が集まった。その機会に、オランダ本国政府が東インド政庁を通じてかれにオレンジ
ナッソー勲章を授与したことが明らかにされた。[ 続く ]