「南往き街道(43)」(2018年08月07日)

近隣の有力地主の中にケイズメイヤー(Kijdsmeir )家がある。この一家はバイテンゾルフ
中心部から北西のチアンペア(Ciampea)地区を本拠にして、チロドン(Tjilodong)、チビノ
ンウェスト(Tjibinong West)、タポス(Tapos)、クランガン(Kranggan)の諸地区を領して
いた。ECCアメントの姉妹のひとりはケイズメイヤー家の息子のひとりに嫁いでいる。

地主たちの行為を見ていると、かつて歴史の中に出現した封建領主たちの行動を連想させ
るものが少なくない。ジャワ島西部では20世紀に入ってまで、そのような状況が連綿と
続けられていたようだ。ひとびとの精神の中に刷り込まれてきたそのような社会のあり方
が干からびて行くのに、21世紀まで時間がかかっても不思議でないようにわたしには思
われる。

ECCアメントは1935年に没して、チブブルにある家族廟に葬られた。
妻のマリア・スエルモント(Maria Suermondt)と三男一女の四人の子供が残された。祖父
の名前を与えられた長男のダニエル・コルネリス・アメントが1928年以来既に父の後
を継いでおり、チブブルの経営に当たっていた。そして日本軍進攻がこの一族に最悪の事
態をもたらしたのである。


チブブルの西側に隣接しているのがチマンギス(Cimanggis)で、ここはデポッ市に含まれ
るのだが、同じデポック市とは言ってもシャステレインが開いて領有した土地はデポック
市中心部であり、このチマンギス郡はイェマンス(Yemans)一族が地主として領した土地
であったことから、イェマンスランド(Yemans Land)と呼ばれた。しかしイェマンス一族
についてのトピックは何も残っていないようだ。

このランド(Land)という言葉の用法は、広大な私有地あるいは特定個人が地主になって単
一行政区の趣をなしている領地を指してオランダ人が使った。既出のチブブルにせよ、タ
ンジュンオーストにせよ、オランダ語の文書にはチブブルランドやタンジュンオーストラ
ンドという呼称で登場している。

必然的に地主の大邸宅はランドハイス(landhuis)という名称になった。このストーリーの
中でわたしが使っているカントリーハウスという英語はオランダ語ランドハイスの訳語と
して一般に使われているものだが、保養のための別荘という意味合いにとどまらず、領主
館(少なくとも地主館)というニュアンスがからみついていることを書き添えておきたい。
[ 続く ]