「南往き街道(45)」(2018年08月09日)

アドリアナ・ヨハナ・バーケはダヴィッド・ヨハン・バーケ(David Johan Bake)の長女と
して、1724年にアンボンで生まれた。ダヴィッドは1718年にVOCの下級商務員
として東インドでの履歴を開始し、1733年にはアンボイナ長官に登り詰めている。

アドリアナ・ヨハナは若い年齢でアンボイナ軍船隊司令官と結婚し、1738年にダヴィ
ッドが没すると夫と共にバタヴィアに移った。1743年に夫がバタヴィアで死去すると、
やもめになっていたファン・デル・パッラと4カ月後に再婚した。ファン・デル・パッラ
は先妻との間に二男一女をもうけていた。

ところがアドリアナ・ヨハナとの間には長い間子供ができず、かの女は親族や身近なひと
びとの子供を養育することをしきりに行なうようになった。そして1760年に待望の男
児がふたりの間に生まれたものの、この息子は1783年に夭逝する。

アドリアナ・ヨハナは、1787年に没するまでその家で暮らしたようだ。しかしチマン
ギスのカントリーハウスを相続するべき、自分の血を分けた子供がいなくなったことから、
自分が養育した子供たちのひとり、デヴィッド・スミスがその邸宅を受け継いだ。

このデヴィッド・スミスがチマンギスの家を設計したという話もあれば、かれは美術品を
こよなく愛して邸内を養母のために美しく飾ったという話もあるのだが、少なくともアド
リアナ・ヨハナの没後もその家が他人の手に渡ったわけではなさそうだ。しかしデヴィッ
ド・スミスは何らかの事業に失敗して破産し、その家を去った。その後、そのカントリー
ハウスは南往き街道を上り下りする旅人にとっての宿駅として使われるようになった。


その後チマンギスの地主として登場するのは、メステルコルネリスのカピテンチナから差
配を受けるブカシの初代レッナンチナになったラウ・テッロッ(Lauw Tek Lok)だ。かれの
レッナンチナ就任は1854年のできごとである。

19世紀初期にバタヴィアの5大アヘン公認販売者のひとりだったラウ・ホウ(Lauw 
Houw)の家に生まれたテッロッの名前は新聞の常連になっていたが、1869年3月の新
聞に「バイテンゾルフのバトゥトゥリスに豪邸を持っている」という記事が登場し、更に
1873年8月にはバタヴィアのタナアバンとパサルバルに邸宅を持っていると書かれた。
1880年にはグロドッに家があるとの記事もある。かれの生年は1818年と推定され
ているから、若い時期の話ではない。[ 続く ]