「南往き街道(46)」(2018年08月10日)

東インド植民地政庁がチマンギスの土地の一部を軍用地に買い上げる交渉をテッロッと行
っているという記事が1876年8月11日のヤファボーデ紙に掲載されている。チマン
ギスに軍守備隊駐屯地を設けるのは、1860年代にラトゥジャヤ(今のポンドッテロン
Pondok Terong)で発生した反乱に鑑みて、メステルとバイテンゾルフの中間地域の鎮圧
能力を高めることが目的だった。ラトゥジャヤの反乱は先に起こったブカシの反乱の延長
線上にあり、ブカシ反乱のリーダーの一部がラトゥジャヤに逃げた後、態勢を立て直して
行ったものだった。

軍用地買い上げの前にも、バタヴィア〜バイテンゾルフ間の列車線路建設用地買収が行わ
れており、バタヴィア高等裁判所がポンドッチナ・デポッ・ラトゥジャヤの私有地の一部
を政府が補償金を払って強制収用する判決が出されている。チマンギスには線路が通らな
かった。

1881年7月20日のバタヴィア商業新聞が、ラウ・テッロッがバイテンゾルフのカピ
テンチナにチマンギスの土地を27万フローリンで売り払ったことをすっぱ抜いた。タパ
ヌリのバタントル川に建設中の東インドで一番長い百メートルの橋の工事費用総額が14
万フローリンでしかないのに比べて、27万フローリンが異様な高値であることに世人は
首をかしげた。バタントル橋は1879年に着工され、1883年に完成した。もちろん、
そのふたつの間には何の関係もない。

ラウ・テッロッは従来からチマンギスの経営にあまり意欲的でなかった印象が強く、地主
の交代がチマンギスの今後の発展を促すよう期待されているとの声が新聞に記載されてい
た。それから一年も経たない1882年5月、ラウ・テッロッはメステルコルネリスで世
を去った。

チマンギスの西側に接しているポンドッチナの地主がラウ・チェンシアン(Lauw Tjeng 
Siang)であることを1898年6月のバタヴィア新聞が明らかにしている。ラウ・チェン
シアンがラウ・ホウ一族の一員であったかどうかは確認できないものの、かれらもやはり
封建領主もどきの行為を行っていた可能性は否定できない。[ 続く ]