「南往き街道(48)」(2018年08月14日) チマンギス郡からボゴール街道を更に南に下ると、チロドン(Cilodong)郡に入る。元はス ッマジャヤ郡の町だったが、2007年に郡に昇格した。チロドンには陸軍第328戦略 予備軍司令部が置かれており、チロドンという地名を聞くとKostrad という言葉が脳裏に 浮かんでくるインドネシア人の方が多いようだ。 チロドンランドの名前は1820年3月11日のバタヴィア新聞にあるのがもっとも古い ものらしい。バイテンゾルフ市庁が43,319フローリンの地租税で競売に付し、スキ ピオ・イセブランドゥス・エルヴェシウス・ファン・リームスデイク(Scipio Isebrandus Helvetius van Riemsdijk)が手に入れた。チアンペアの地主、ウィレム・フィンセンツ・ エルヴェシウス・ファン・リームスデイク(Willem Vincent Helvetius van Riemsdjik)の十 番目の子供だ。 スキピオは1785年にバタヴィアで生まれ、1805年から11年まで、ダンデルス時 代に作られた東インド政庁の要職に起用された。1820年にかれはチロドンの地主にな ったが、1827年1月に世を去っている。 スキピオはバリ人のマニスを妻にし、子供を7人もうけた。最初の子は娘で、政庁の高官 の妻になった。二番目が長男のウィレム・マルティヌス・ケイズメイヤー(Willem Marti- nus Kijdsmeir)で、タンジュンオーストの地主の末娘と結婚し、農園事業で成功した。三 番目と七番目の子は1837年に世を去った。五番目の娘はクドゥのレシデンの妻になっ た。六番目はカタリナ・ヨハンナ・ケイズメイヤー(Catharina Johanna Kijdsmeir)という 名の娘で、植民地政庁保健局長Dr. Geerlof Wassinkと結婚し、夫は定年退職後タポス(Ta- pos)ランドを買い取って地主になった。タポスはチロドンに隣接している。 スキピオの後を継いでチロドンの地主になったのは5番目の子供アブラハム・ピーテル・ ケイズメイヤー(Abraham Pieter Kijdsmeir)だった。アブラハム・ピーテルは他の兄弟姉 妹と異なっていたようで、バリ人の母の血が濃かったのだろうか、自分をプリブミと考え る傾向が強かった。そのせいか、サイバという名のプリブミ女性と結婚している。[ 続く ]