「南往き街道(51)」(2018年08月23日) 地名の由来としてこんな話が語られている。昔、バンテンとチルボンによるイスラム化が 進み始めたころ、この地区の地場支配者は仏教に固執してイスラムを拒否した。チルボン 王宮は優れた女性サントリを選んでその支配者をイスラム化するよう密命を与える。 かの女はイスラムが優れていることを説いて説得しようとしたが、支配者の気持ちは変わ らない。正攻法ではダメだとわかったため、かの女は策略を設けた。川の近くに竹で囲ま れた水浴場を作り、木や花を植え、愉しくくつろげる様子に仕立て上げ、そこを通りかか る者はついついそこでひと時を過ごしたくなるようなものにした。 そんな場所があることを噂で聞いた支配者は、ある日そこを訪れて気持ちよくなり、ゆっ くりと水浴した。魔力を持つクリスを衣服と一緒に置いて、かれはのんびりと水浴を済ま せてから上に上がったところ、なんと女性サントリが自分の魔力を持つクリスを手にして、 「さあ、イスラムに入信せよ」と迫って来たではないか。 かれにとって女性サントリを打ちひしぐのは赤子の手をねじるようなものだが、魔力を持 つクリスの方が怖い。結局支配者は、女の知恵に敗れたという無様な評価を避けるために その地方から逃亡し、この地域はイスラム勢力の前に明け渡されてしまった。 こうしてスンダ語で水を意味するチ(ci)と竹を意味するアウィ(awi)を合わせたチアウィが この地名として定着したというストーリーだ。 ファン・イムホフ総督は1751年、チサルア・ポンドッグデ・チアウィ・チオマス・チ ジュルッ・シンダンバラン・バルブル・ダルマガ・カンプンバルの9ディストリクトをひ とつの行政単位にまとめてバイテンゾルフレヘント行政区にした。それ以来チアウィは農 産物の貢納と更に西へ向かう交通の中継地としてVOCの監督下に入ることになった。 1847年以降の歴代チアウィ村長の名前は残されているようだが、それ以前の状況はよ くわからない。結局チアウィが歴史の中で歩んだ評価はその程度のものでしかなかったと いうことなのかもしれない。 チアウィから街道を13キロほど南下すると、チゴンボン(Cigombong)村に達する。街道 からそれて東に向かうと、3キロほどのところにリド湖(Danau Lido)がある。 植民地政庁が1898年にバイテンゾルフ〜スカブミの道路工事を行ったとき、オランダ 人の工事監督官が快適に過ごせる宿泊場所を工事関係者らが探した。そして山に少し入っ たところの山峡が避暑保養にも適している場所であるのを見出して、監督官にそこを勧め た。[ 続く ]