「南往き街道(53)」(2018年08月27日)

チゴンボン村から24キロ更に南に下るとチバダッ(Cibadak)村に着く。街道はここで東
に向きを変え、20キロ弱でスカブミの町に至る。一方、ここからは更に南に向かう道路
があり、50キロほど走ればプラブハンラトゥに行くことができる。プラブハンラトゥへ
はチバダッ村に入る手前で西に折れる道路があり、このルートを取れば距離はもっと近い
が、山中のあまりにぎやかでない道を通ることになる。

1687年にピーテル・スキピオ・ファン・オーステンデ(Pieter Scipio Van Oostende)
率いる第一回探査のための探検隊がボゴール高原の寂れた村に大きな街の遺跡を発見した
あと、更に南方のプラブハンラトゥ(Pelabuhan Ratu)まで歩を進めて、インド洋岸にた
どり着いている。

1690年にはアドルフ・ウィンクラー(Adolf Winkler)の探検隊が探査を行い、そのあと
アブラハム・ファン・リーベークの探検隊が1703年・1704年・1709年にプリ
アガン地方奥深くまで探査した。1709年にはグデパンラゴ山系を越えてスカブミ地方
に達し、コーヒー栽培の可能性を調べている。

1709年に第8代総督となったリーベークは1712年にプリアガン地方で試験栽培さ
せようとしてコーヒーの苗を携え、当時オランダ人がヴァインコープスバアイ
(Wijnkoopsbaai)と呼んでいたプラブハンラトゥに海路達してそこで上陸した。プラブハ
ンラトゥに海からやってきた最初の西洋人がかれだったわけだ。リーベークはそのときの
旅で、パパンダヤン火山とタンクバンプラフ火山に登って火口で硫黄の調査も行った。火
薬の原料は必需品なのだ。

リーベークは1713年11月にバタヴィアで総督在任中に死去したが、タンクバンプラ
フでの硫黄調査で健康を害し、それが命取りになったと言われている。享年60歳だった。


スカブミの町の中心部まで行かないあたりに、街道から左に折れて山に向かう道がある。
チバダッ村からおよそ13キロほど進んだチサアッ(Cisaat)の警察署の手前に左に折れる
道がある。そのカドゥダンピッ(Kadudampit)通りを山に向かって16キロあまり走る
と行楽地シトゥグヌン(Situ Gunung)に行き当たる。[ 続く ]