「インドネシア語のアプラウト」(2018年08月30日)

ライター: 国語学者、著述家、サロモ・シマヌンカリッ
ソース: 2008年8月8日付けコンパス紙 "Praktik di Samping Apotek"

apotekかapotikか?kantongかkantungか?kokohかkukuhか?praktekかpraktikか?telor
かtelurか?いまだにそんな質問をするひとが絶えない。

自分の好きなのを使えばよい、とわたしは答えている。apotekであろうがapotikであろう
が、あるいはtelorであろうがtelurであろうが、何も違いは起こらないのだから。買い手
がtelor bebekと言おうがtelur bebekと言おうが、パサルの商人は同じ物をはかりに乗せ
るのである。


フレクションを持つ言語ではアプラウトと呼ばれる言語現象が知られている。アプラウト
現象とは他でもなく、単語の母音が変化することで相・単数複数・時制など文法上の機能
を変化させるという現象である。

英語の例ではdrink-drank-drunkというものがある。それらは飲むという同じ行為を表し
ているが、異なる時制を示している。イタリア語ではbambino-bambiniという例が見つか
る。それは同じ男児という意味だが、人数が異なっている。

インドネシア語にアプラウトはあるのだろうか?インドネシア語文法書の筆者たちはイン
ドネシア語にある、意味を変化させない母音変化を説明するのに、このアプラウトを使っ
ている。例えば?そう、この文頭に掲げたようなものがそれだ。つまりapotekとapotikの
eとiは、それらの言葉の意味を変えないのだから音素でないということになる。kokohと
kukuhのoとuも同様だ。

lantangとlintangのaとiやpareとparuのeとuは、単語の意味を異ならせるのだから音素で
ある。


残念なことに、一千倍も残念なことに、このアプラウト現象がもたらす言語上の豊かさが
国語センターのKBBIの中に受け入れられていない。その大辞典はapotek, kukuh, prak-
tik, telurといった、それらの一方だけしか標準として認めていないのである。その両方が
同等のものとして認められれば、われわれの精神性を表現するためのクリエーティブな活
動ははるかに生き生きしてくるにちがいないというのに。たとえばある表現・文章・文節
・論説にリズムを与えたり、音韻効果を倍加させるような使い方が可能になる。

国語センターによれば、apotekとpraktikが標準とされたのはパラダイムが理由だった。
apotekerという言葉のために、apotikは標準外とされたのである。apotek-apotekerとい
う連鎖のパラダイムがそれを促した。praktekも同様で、praktik-praktikan-praktikumの
パラダイム連鎖によって排除された。

そうなると、「praktek dokter di samping apotik」という表現は国語センターに従って
「praktik dokter di samping apotek」と書かれなければならなくなる。たとえ医師本人
が看板にpraktekと書き、隣の薬局の屋号の看板がApotik Xと書かれていたとしても。

国語センターが「praktek dokter di samping apotik」を否定したとしても、こんな質問
を投じられることは大いにありうるのだ。「医者がapotikの隣でpraktekを開業したなら、
法律違反になるのか?」と。