「南往き街道(59)」(2018年09月04日)

マタラム王スルタン・アグンが没すると、後にアマンクラッ(Amangkurat)を号する王子
が跡を継いだ。このアマンクラッ一世の統治は1646〜1677年で、マドゥラの領主
トルノジョヨ(Trunojoyo)の叛乱で王宮を脱出し、バタヴィアに保護を求めての逃避行の
さ中に、バニュマスで毒を盛られて非業の最期を遂げた。

父のスルタン・アグンが示した対決姿勢をよそにアマンクラッ一世は1646年に、マタ
ラムの支配地域にVOCが交易ポストを設けること、マタラムはVOCが支配する島々と
の交易を行うこと、また捕虜を互いに解放するといった交換条件に関する条約をバタヴィ
アと結んだ。

しかしかれは自分の息子で皇太子であるマス・ラッマッ(Mas Rahmat)と不仲になり、政
策の不一致や私生活の争いが元で互いに相手を破滅させようとする関係に陥る。それを通
奏低音にしてアマンクラッ一世はさまざまな要因から大勢の人間の生命を奪う殺人鬼と化
し、それがかれの敵を更に増やすという悪循環が始まった。

マス・ラッマッはマドゥラ領主トルノジョヨと知り合い、親族に支援させて反乱を起こさ
せるのに成功した。トルノジョヨの叛乱軍にマカッサルやスラバヤからの応援軍が加わり、
アマンクラッ一世はバタヴィアに軍事支援を求めて叛乱軍と対決するが、敗北したあげく
1677年には自分の王宮が陥落してしまう。


父に替わってアマンクラッ二世となったマス・ラッマッはコルネリス・スピルマン(Cor-
nelis Speelman)第14代総督が立てた総力を結集する叛乱軍撲滅作戦に加わり、スラバ
ヤでの会戦で叛乱軍を敗った。そのあとは掃討戦となり、1679年にクルッ(Kelud)山
でトルノジョヨが捕らえられて叛乱は終結する。

言うまでもなくVOCは功績の代償をアマンクラッ二世に要求した。こうして1678年
にプリアガンとチルボンの支配権がバタヴィアに移譲されるのである。それ以来マタラム
王国は徐々に徐々に、牙を抜かれた猛獣の立場に追いやられて行く。

1808年にオランダ植民地政庁はカディパテンプリアガンの地域行政システムに手を入
れた。ダンデルス総督が大郵便道路を建設した年だ。大郵便道路はバイテンゾルフからチ
アウィを経た後、グデ・パンラゴ山系の東尾根を突っ切るルートを取って、山系南東に位
置するチアンジュルに向かった。スカブミを通る迂回路をダンデルスは避けたということ
だ。

カディパテンプリアガンはプリアガンレシデン区となり、最初チアンジュルに首府が置か
れたが、グデ山が噴火したために1864年にバンドンへ首府が移された。[ 続く ]