「語尾の有声無声は区別なし」(2018年09月04日)

ライター: オボル財団編集者、ヤンワルディ
ソース: 2016年3月5日付けコンパス紙 "Tekad yang Nekat"

記念碑的作品インドネシア語シソーラス編者エコ・エンダルモコ氏とわたしは最近、SM
Sを介してインドネシア語に関するミニ討議を行った。エコ氏が日常用語における実態に
関しての指摘を行ったのだ。どうしてわれわれは/tekad/と書きながら一方で/nekat/と
も表記しているのか?基準に従えば、つまり/nekat/をベースに置くのなら、/tekat/と綴
られるべきではないか?

わたしは思った。シソーラス編者でさえその現象を斟酌しているのだから、インドネシア
語話者はどんなに困惑していることだろうかと。


インドネシア語では有声破裂音(b,d,g)と無声破裂音が語尾にある場合、一貫性に欠けてい
る。エコ氏が指摘しているのは/tekad/の/d/と/nekat/の/t/の対比だ。その非統一性の結
果、インドネシア語話者はそれらの語の使用に不便を感じている。データもしばしば類似
の双子を出現させている。nekad-nekat, ojek-ojeg, beduk-bedug, mantap-mantabとい
うように。言語専門家でさえしばしばごちゃ混ぜで使っているのだから、一般人において
おやというところだ。おまけにそれらの文字の発音は異音的であり、意味を変化させる音
素的なものでないのだ。babadとbabatのように意味の異なる関係であるなら、実用面で
の問題は発生しないにちがいない。

実のところ、わたしはこの種のトピックに対してあまり関心がない。その問題をわたしが
気にかけていないとか、軽視しているということでなく、わたしはもっと実際的な人間で
あり、自分自身にやっかいな問題を抱えこませたくないというのがその理由である。言語
面の自説を持ち、自分のチョイスに一貫性を持たせていることがわたしには重要なのだ。

要するに、ただ受け入れるだけであり、忘れたら辞書を引きに行く。しかしわたしは最終
的にこのトピックを書く気になった。インドネシア語のシステム的熟成のために少しずつ
解きほぐしていけるものがあり、また実用面でもインドネシア語話者の不便を軽減させる
ように思われる別の面がこのトピックには存在しているからだ。


この問題は実際、大昔からの決まり文句である。わたしは中学生のときに国語(インドネ
シア語)の先生から、インドネシア語には単語の語尾に有声破裂音(b,d,g)はないという説
明を聞かされた。インドネシア語話者はそれらの音を発音できないからだというのがその
理由だった。だが実際に、現在のインドネシア語話者は語尾にあるそれらの音を発音する
ことができる。そうだからこそ、本論の冒頭に述べた非一貫性が発生しているのである。

KBBIの中でもbab, babad, sebab, tekadなどが採録されている事実に見られる通り、
語尾の有声破裂音は認知されている。つまりインドネシア語レキシコンはそれらの有声破
裂音を、表記面で対応する無声破裂音と共に、認知しているということなのだ。

言語的実態と理論的実際的考え方に関して、われわれが取るべき姿勢はどうだろうか?
語尾の有声破裂音を発音するのにわれわれには音韻学的障害がないということ、辞書にも
語尾に有声破裂音を持つ単語が掲載されている事実などを見る限り、今さら無声破裂音に
変更するような統一化は必要とされない。もしその語が外来語であるなら、原語の音と綴
りを検証してみるべきだ。もし由来のはっきりしない語であるなら、今現在の実際の音を
チェックするべきだ。そのふたつの原則でこの問題に対処すれば、インドネシア語のシス
テムはより成熟度の高いものになり、机上の解釈に操られることは免れるだろう。

ここで強調しておきたいのは、本論のトピックは一貫的か非一貫的かという問題ではない
ことだ。たとえばmantapという語における実態とbabの語における実態はそれぞれ異なっ
ているからである。その結果、一律な取り扱いは無理を生じる。ケースバイケースで見な
ければならないのである。