「南往き街道(終)」(2018年09月05日)

歴史に登場するチアンジュル最初の領主はラデン・アリア・ウィラ・タヌ(Raden Aria 
Wira Tanu)で、パダルマン(Padaleman)チアンジュルを地名に称し、チクンドゥル(Cikun-
dul)に領主館を置いた。かれは1677年から1691年まで支配権を振るった。かれは
タラガ(Talaga)王家の後裔と言われている。

14世紀にガル王国の王族が現在のマジャレンカ(Majalengka)県の一地区の領主となり、
スナン・タラガ・マングン(Sunan Talaga Manggung)を号した。17世紀になってタラ
ガ王家のひとりアリア・ワンサ・ゴパラナ(Aria wangsa Goparana)がイスラムに入信し
たが、タラガ王国のスナンたちはヒンドゥを頑なに守り続けてムスリムを疎外したことか
らゴパラナはムスリム領民を連れ、故郷を捨てて西に向かった。そしてグデ山東山麓の無
人の原野を開いて村を興し、そこをサガラヘラン(Sagara Herang)と名付けた。

その土地がマタラム王国領であるにも関わらず、アマンクラッ一世の目を盗んで西ジャワ
内陸部へ勢力を伸ばしてくるバタヴィアに対して、ゴパラナの息子ウィラタヌ(Wiratanu)
はきっぱりした対決姿勢を示した。だが程なくプリアガンはバタヴィアに移譲されたので
ある。

代替わりしたウィラタヌ二世のとき、バタヴィアのVOCはチアンジュルをレヘント行政
区にし、ウィラタヌ二世をレヘントに任じた。1691年のことだ。

1707年にウィラタヌ三世が跡を継ぎ、レヘント行政区の首府をチアンジュル村に移し
た。この三世はバタヴィアの命ずるコーヒー増産に邁進し、チアンジュルレヘント区をプ
リアガンレシデン区最大のコーヒー産地に押し上げた。その努力を賞して時の第19代V
OC総督ファン・スウォル(Van Swoll)はジャンパン地区をチアンジュルレヘント区に合
併させることを承認している。

次のレヘントはウィラタヌ・ダタル(Datar)四世を称し、1727年に代替わりした。こ
の四世の時代が終わる1761年までの間に、チアンジュルレヘント区は更にチバラグン
とチカロンを区域に加えて目覚ましい拡張を遂げている。[ 完 ]