「インドネシア植民地化はイ_ア人のおかげ(1)」(2018年09月06日)

ライター: 中央統計庁退職統計官、オーストラリアフリンダース大学卒業、ジョウサイ
リ・ハスブラ
ソース: 2018年9月3日付けコンパス紙 "Pelajaran dari Demografi Masa Kolonial"

植民地時代である1930年の住民センサスからわれわれは、多くの教訓を得ることがで
きる。大きな民族が小さな民族に、どれほど容易に支配され得たかということを。いくつ
かの地域で発生したヒロイックな反乱は別にして、デモグラフィというパースペクティブ
から見たかぎり、この民族の構成員たちは概して「よろこんで」植民地支配者をサポート
したのである。そんなことがどうして起こったのだろうか?

これまでの歴史研究は植民地における支配民族のデモグラフィ構成と地理的分布に関する
データならびにその意義を提起したことがない。歴史学において量的データは基盤をなす
ものにできないのだから。反対に統計学では、量的データは興味を喚起してやまないもの
だ。たとえば、「センサス:オランダ領東インドの概要、1930年」の中に盛られてい
る統計数値の研究だ。この統計資料出版物は単に当時の住民人口の状況を映し出している
ばかりか、インドネシア人のメンタリティが弱体民族のそれであることをも教えている。

< 蘭領東インドの住民 >
VOC船隊が1596年にやってきたとき、かれらはコルネリス・ド・ハウトマンに率い
られた249人でしかなかった。かれらは現住民から平和的に迎えられて、容易に上陸す
ることができた。1622年のVOC戦闘部隊は143名から成っており、そのうちオラ
ンダ人は57人のみで、他はヨーロッパ諸国出身の傭兵だった。

1674年にジャワ島住民人口は3百万人に達した。バタヴィアの人口は27,068人
で、ヨーロッパ人は2,024人のみだった。当時のバタヴィアはVOCという会社の領
地であり、VOCという会社が雇用して南洋に派遣した社員はオランダ人だけでなく、ヨ
ーロッパのさまざまな国の者も少なからずいたのである。

VOCの解散で東インドの支配権はオランダ政府が引き継いだ。蘭領東インドの地に3百
年以上も住み着いたあとの1930年にインドネシアの人口は6,070万人に増加して
いた。そのうちの5,910万人はプリブミ(インランダー)で、オランダ人および他の
ヨーロッパ人は240,417人、華人系120万人(白人の5倍だ)、残りはアラブ系
等々だった。

インドネシアにいた24万人のオランダ人たちのうち、19万3千人はジャワ島内に住み、
外島部に住んだオランダ人たちはたいへん少数だった。スマトラ島の総人口は820万人
で、そこに住んだオランダ人たちは28,496人であり、カリマンタン島とスラウェシ
島は総人口640万人で、オランダ人たちは1万4千人だった。もちろん赤ちゃんから年
寄りまで含まれている。[ 続く ]