「インドネシア植民地化はイ_ア人のおかげ(2)」(2018年09月07日) 一般的にオランダ人たちはいくつかの大都市に集中して住んだ。バタヴィア37,100 人、スラバヤ25,900人、バンドン19,600人、スマラン12,600人、マラ ン7,400人、バイテンゾルフ(ボゴール)5,200人。外島部で2千人以上が集中 した都市は三つあった。メダン4,300人、パダン2,600人、マカッサル3,40 0人だ。そうでないひとびとは、きわめて少人数の集団であちらこちらに分散して住んだ。 たとえばブカシの例だ。1930年のブカシの人口は20万2千人で、そこに住んでいた オランダ人たちはわずか22人だった。これはほぼ5世帯程度の人数だ。他にも少人数の 例として、ランプンのムンガラに8人、タンジュンバライ10人、ヨグヤのコタグデ22 人などがあげられる。それらの事実が告げているのは、オランダ人たちはどんな土地にで も、またほんの2〜3家族しか仲間がいなくても、何を怖れることもなく住み着いていた ということである。 かれらが住んだ土地に社会的快適さがあり、地元のプリブミたちからの支持や尊敬が得ら れていたからこそ、かれらは何を怖れることもなく住み着いていたのである。反感や憎悪 や潜在的な危険がひしひしと感じられるような場所にいったい誰が家族を連れて住もうと 考えるだろうか? 見方を変えるなら、プリブミはオランダ人たちに害意を示すことを怖れていたと言えるか もしれない。オランダ人の兵隊がその土地にいなくとも、植民地支配者のために働く村役 ・警察・プリブミ軍人の人数ははるかに多く、そして至る所にいたのだから。その構図が プリブミ民衆に心理的圧迫感を与えていたのは言うまでもあるまい。 < 自民族の軍隊に征服される > 1928年の青年の誓い以後、民族意識の高揚は民衆の間に広がって行った。ところがそ んな状況下の1930年ですら、教育のある知識階層のほとんどは依然として植民地支配 者に仕える自分のコンフォートゾーンの中にいた。ラテン文字が読める知識階層は総人口 の6.4%を占めた。 そのうちの274,802人は植民地行政の末端を担う村役人だ。村落行政の外にあるオ ランダビューロクラシーはプリブミが動かしていた。公務員8万人のうちの7万人(正確 には69,939人)はプリブミであり、オランダ人は8,235人だけで、華人系が2, 360人だった。プリブミは既に植民地行政に不可欠な要素になっていたのだ。 われわれをもっと驚嘆させる事実は、45,740人から成る蘭領東インド植民地軍の戦 力である。その82.4%にあたる37,704人がプリブミだった。ジャワ島内の戦力 は6,637人がオランダ人たちで、26,026人がプリブミ、外島部は1,378人 がオランダ人たちで7,594人がプリブミだった。蘭領東インドの警官は総数35,8 40人で、95.8%を占める34,340人がプリブミだった。[ 続く ]