「愚かな白人がいっぱい・・・(後)」(2018年09月18日) この国で他人から一目置かれたいと思ったら、ヒンドゥ界ではサンスクリット語の呪文を 唱え、イスラム界ではアラブ語を操り、その他の界隈では英語でペラペラッとやることだ。 あちらの言葉が身に着いていることは、この「我がインドネシア」の国で格好をつけるた めの絶対条件なのだ。しかしそれは白人にとって、パラドックスに行き着くことになる。 かれらはよくインドネシアのデモクラシーについてあれこれ言うのだが、かれら自身がイ ンドネシア人に対してデモクラシー的姿勢を取らないのである。そこに思いが至ると、わ たしの白い頬は突然赤く染まる。 白人たちに関する他のうんざりは、自分の愚かさを利口そうに包もうとするやり方だ。こ の国に20年も住んでいて、Tempoという名の雑誌やKompasという名の新聞があること を知らないのだが、フローレスのカインやバタッの木彫りについて三時間も確信を持って 話したり、白人専用バーをうろついているいかさま報道関係者の情報源になる者が大勢い る。かれらにとって重要なのはややこしい状況が付帯するインドネシアについての知識な のでなく、トルコマルタバッのような細切れの知識なのである。フローレス、バタッ、等 々のオリエンタリスト的知識が、かれらがプリブミ層より上位にいることを効果的に示す シンボルなのだ。われわれの時代の骨とう品コレクターたちはだいたいが、オランダ隆盛 時代のKNIL(オランダ王国東インド植民地軍)の後継者なのである。 本当は、インドネシアというところは多種多様な愚物白人を生み出しているのだが、この 狭い紙面には載せきれない。明瞭なのは、かれらとわれわれの間に大きな違いが存在して いることだ。インドネシアでは、利口な人間もおとなしくしている傾向が強いから、利口 者か愚物かはなかなかわからない。ところが愚かな西洋人はどこへ行っても自分のグッド アイデアを大声で言い立てないと収まらず、こうしてかれの愚かさは即座に露呈してしま う。わたしなら、そんなカテゴリーに含まれる心配はない。 ともあれ、気を付けたほうがよい。わたしが白人に対してレーシストになる理由をたくさ ん持っているのだから、ジャワ・中華・アラブ・ユダヤ・共産主義者・シーア派・アッマ ディア派等々に対しては嫌う理由がないなどと思ってはいけない。わたしは客観的な人間 なのだ。あなたがたほど先入観に支配されているわけではない。「エー、エー」「オー、 オー」皆さん、聞こえてますか?この馬鹿な白人のぶつくさが・・・[ 完 ]