「民衆の変遷(2)」(2018年09月25日)

1918年にシナールジャワ(Sinar Djawa)紙を興したマルコは過激ジャーナリストだっ
た。かれは運動を呼びかける「ダウエス・デッカーとスネーフリート」と題する記事を書
いた。
Douwes Dekker dan Sneevliet
.... Bagi kalangan kaoem pergerakan ra'jat, Sneevliet adalah seorang berbangsa 
Belanda ataoe seorang pembela kaoem rendah dan kaoem tertindas, orang kromo 
jang berkata teroes terang.....(Agung Dwi Hartanto, 2008)

ra'jatという言葉は徐々に、虐待への抵抗、生活形態の改善、支配者の敵などのような観
念を含むようになった。ra'jatの語は政治意識を高め、民衆運動を培養しうるものに変わ
って行った。

政治運動家たちは植民地国家の将来を改善することを望み続けた。モハンマッ・ハッタ
(Mohammad Hatta)氏とスタン・シャッリル(Sutan Sjahrir)氏がオランダでの学業を終
えるとともにインドネシア協会(Perhimpunan Indonesia)の基盤を築いてから帰国した。
ハッタとシャッリルは民衆主権(Daulat Ra'jat)という雑誌を発刊した。第一刊の発行は1
931年9月23日だった。編集者の解説にはこう記されている。
.... Nama madjalah kita soedah memberi pengertian jang betoel, bagaimana sikap kita 
terhadap ra'jat. Daulat Ra'jat akan mmpertahankan azas kera'jatan jang sebenarnja 
dalam segala soesoenan: dalam politik, dalam perekonomian dan dalam pergaoelan 
social. .....

この雑誌は民衆(ra'jat)が自らの運命を決めることを希求するシンボルとなり、ナショナリ
ズムを高揚させた。植民地政府はra'jatという語をますますモンスター視するようになって
いった。

1940年代になると、ra'jatの語は一層強さを増して、インドネシアという国家の形成へ
の希望を言い表すようになる。ra'jatの反抗に向けて植民地政府は、民族指導者を逮捕して
民衆の意欲をくじこうとする対策で応じた。しかし民衆は黙っていない。さまざまな手段
で運動は続けられた。[ 続く ]