「イニシアパ?(終)」(2018年10月05日) 同じ現象は二人称代名詞にも現出している。「KAMUと呼ばれるのは侮蔑?」と題する 四分載記事にもあるように、上位者に対しては父なら父、母なら母、祖父母おじおば兄ち ゃん姉ちゃんといった言葉を二人称に使う慣習が確立されてしまい、血縁ファミリー外の ひとに対しても拡大ファミリー構造が適用されて社会化してしまったために、二人称代名 詞は同等あるいは目下の人間に対してもっぱら使われるようになってしまった。 http://indojoho.ciao.jp/2018/0416_2.htm http://indojoho.ciao.jp/2018/0417_2.htm http://indojoho.ciao.jp/2018/0418_2.htm http://indojoho.ciao.jp/2018/0419_2.htm 二人称代名詞の使い方だけにでさえ、相手と自分の身分比較をしなければ社会交際感覚の 当否を問われる。ましてや、文型や語調においておやである。そうなってくると、相手の 顔かたちの見えない電話の場合、まず必要なのは相手との身分比較となり、自分が誰かを 名乗るどころでなくなってしまう。きっとこれが「ハロー、イニシアパ?」というインド ネシア独特の電話話法を生んだ原因ではないかというのがわたしの推測だ。 このような非対等文化がヒューマンビヘイビアにいくつかの特徴的な様相を与えているよ うにわたしには思える。そのひとつが見栄であり、それと根を同じくする傲岸な態度だろ う。 非対等文化で下位の人間は常に下手に出なければならない。謙譲の美徳を知らないわけで はないものの、最初から下手に出てくる人間は下位者としての日常を身に付けている人間 だという常識というか人間観が世の中に定着してしまうのである。社会的地位が高ければ 高いほど、質素な風采と下手に出る態度を示す人間を頭ごなしに低位者扱いする心理メカ ニズムは容易に想像できるにちがいない。 非対等文化がインドネシア人にもたらしている精神傾向は、もっと深く観察されてよいよ うにわたしには思える。もちろんそれを非対等文化に結び付けて分析しなくとも、社会を 注意深く観察すれば見えて来ることではあるのだが。[ 完 ]