「U」(2018年10月08日)

ライター: 短編作家、レイニ・フタバラッ
ソース: 2012年9月7日付けコンパス紙 "Koara Roaya"

8月26日付け本紙の「時は金なり」と題する記事の中でサムエル・ムリア氏は「koara 
roayaになれるなら、ストレスなど厭わない。」と書いた。

わたしは即座に思い当たった。最近、一部の形容詞にその程度や数量あるいは容量などを
強める接頭辞や挿入辞がしばしば加えられて、sangat, amat, sekali, tak terkiraなどを
代替する用法をよく目にするようになっている。enak に u という音素を加えてuenak と
表現し、amat, sangat, sekaliなどに代替させているのだ。

ジャワ語では、enak tenanはsangat enakやenak sekaliを意味する。ところがそれにすら
uが加えられてuenak tenanにされている。どうやらsekali, sangat, amatなどの非限定的
な単語では在来的な副詞を何倍も凌駕する程度の違いが 十分に表現できないと考えられ
ているようだ。それどころか、「Es krim durian di Kafe Sonola rasanya wah!」で使わ
れているような、感嘆詞wahですらまだ足りないと見られている。同じことは形容詞ba-
nyakにも当てはまり、挿入辞uを加えてbuanyakとされる。一方、luar biasaは頭のlが数個
のrに変えられて、rrruar biasaとなる。

それらの接辞は話し言葉と書き言葉の両面で魅力を高めると同時に聞きやすく覚えやすい
ことを目的に作り出されたように見える。ある宣伝コピーには「Diskonnya buanyak, 
bonusnya rrruar biasa.」と書かれていた。

よく注意して見ると、uenak, buanyak, rrruar biasaなどの形容詞や副詞は、貧困・自然
災害・住民タウラン・玉突き交通事故などといった悲しむべき、惨めな気持ちを起こさせ
る状況を描くケースでは使われていない。「Kerugian material akibat konflik sosial 
itu rrruar biasa.」あるいは「Jumlah petani yang mengalami gagal panen akibat 
perubahan iklim buanyak」などとは誰も言わないのだ。それらの言葉は常に内容が楽し
いもの・喜ばしいもの・華やかなものである場合に使われている。これはソスメドや宣伝
広告を経由して若者や大人たちのガウル世界にその出現と使用が関わっていたということ
を意味しているにちがいない。好むと好まざるとに関わらず、このデジタル時代には宣伝
広告・TVコマーシャル・ソスメド並びにモール・レストラン・カフェなどのガウル媒体
が言語変革の仲介者になるのである。

uenakの同義語はtop markotopやmaknyusだ。それらの同義語は料理評論家のボンダン・
グナワン氏がさまざまな全国TVコマーシャル放送の中で広めた。uenak, koaya roaya, 
buanyakのように母音を付け加えたり、rrruar biasaのように頭字を入れ替えるのとは違っ
て、top markotopは形の整った形容詞だ。挿入辞を入れて繰り返す方式は、インドネシア
語における語形成方法のひとつである。alang kepalang, gilang gemilang, guruh gemuruh
などの標準インドネシア語に匹敵するものだ。

週末や休日の伝統に合わせて発展を続ける料理の世界は社会交際や宣伝の需要に応えて独
自の言葉を生み出した。あるひとはこう述べた。
Rasa seafood di Sibolga maknyus. Jangan lupa mampir di rumah makan Togatorop. 
Kepiting dan udang gorengnya top makotop!