「Ng」(2018年10月11日)

ライター: インドネシア大学文化科学部教官、カシヤント・サストロディノモ
ソース: 2011年8月26日付けコンパス紙 "Ng(eh)"

演劇家プトゥ・ウィジャヤ氏のエッセイ集「Ngeh」の中をあちこち探してみたものの、
そのタイトルの説明をどこにも見出すことができなかった。著者はそのタイトルのわけを
一言も語っていないのである。ヤコブ・スマルジョ氏の序文もまったくそれに触れていな
い。この書はその演劇家当人の文化思想を理解するための辞書のようなものであるという、
そこはかとなくほのめかしているような文章が見つかっただけだ。辞書としての意味を捉
えるなら、「Ngeh」は読者を文化の大宇宙という理解に連れ去ることだろう。

だとすればngehはmengertiやmemahamiを語義とするブタウィ語の単語であると見るのが
妥当だろう。Gua baru ngeh setelah die jelasin maksudnye. という文に出現するngeh
だ。標準インドネシア語に直せば、Saya baru paham setelah  dia menjelaskan mak-
sudnya. となる。ブタウィっ子であるブンダリ氏が編纂したKamus Bahasa Betawi-
Indonesia には、この単語はengehと記されている。一方、国語センターのKBBIには
engahと綴られている。ならばngehあるいはngahは短縮形なのであり、ngの形が強調さ
れていると解釈できる。ngablak, ngacir, ngakakのように、ブタウィ語にはこの形式の
単語が数多い。

言語学的には、ngの説明はまた異なっている。ハリムクティ・クリダラクサナ氏の著
「インドネシア語における語形成」によれば、ngは接頭辞でなく接中辞であり、基語の
先頭音が鼻音化される現象だ。それによって名詞が動詞化されたり、形容詞や他の品詞に
変化する。たとえば、名詞rujakがngrujakとなって動詞化され、あるいは形容詞kendurが
動詞化してngundurとなる。

接中辞ngは標準外口語でのみ発生するため、公式の場では使用が避けられることになる。
時としてngは正しく善いインドネシア語の環境を破壊するものと見なされる。たとえば
卒論を書くとき、禁止は無理だとしても、学生はそれを使わないよううるさく指導され
る。ngを使うのは学術的でないと見られているのだ。もしもSejak abad ke-19, ngudud 
dan ngopi sambil ngobrol telah meluas di pedesaan Jawa. というような文章が史学
の卒論に出現しようものなら、卒論審査の机上で必ず問題にされる。


しかしngを完全に排除するのも困難であるように思われる。外来語や略語を含めたさまざ
まな種類の基語が持つ柔軟な適応性はngをしてインドネシア語の文形成に大きい利便をも
たらしてきた。1980年代にLHI(Lembaga Humor Indonesia)の会長を務めたアルワ
・スティアワン氏はしばしばこんな批判を口にした。Tampilan lawak di televisi kita 
kurang ngel-ha-i. これは標準インドネシア語でのTampilan lawak di televisi kita 
kurang memenuhi patokan LHI. というセリフよりはるかに効果的だ。コメディアンとい
うのはドタバタ笑いをしていればいいというものでなく、シリアスでスマートに笑いを生
み出すものだということをそれは語っている。


大学の礼拝所の係員グマル(Ngumar)さんに、どうして一般的なウマル(Umar)という名前
にしなかったのかとわたしは好奇心がらみで尋ねてみたことがある。すると面白い答えが
返って来た。「ジャワ的だし、堅苦しくないんですよ。」

かれにとってウマルという名は予言者の友人を思い出させるために、威厳が重すぎて負担
を感じるようだ。そのクブメン出身の男性の思考の流れに沿うなら、ngはユニバーサルな
ビッグストーリーを文化変容させる触媒になっているのである。