「バニュワギの歴史(2)」(2018年10月11日) 実際に、インドネシアの諸種族は一般的に、外来者をオープンに受け入れて、もてなし、 友好を示す姿勢を持っている。それは、古代から交通の十字路に位置したインドネシアの 諸種族が自己の存続と繁栄を図るために身に着けた文化ビヘイビアであり、そんな必要性 をいささかも必要としなかった辺鄙な島国の閉鎖性と尊大な精神とは趣をまったく異にす るものだ。 バニュワギの原住民とされているウシン(Using)族、別名オシン(Osing)族は保守性や閉鎖 性の影が薄く、進取の気に満ちており、外来の新奇なものを容易に取り込んで伝統の一部 に変えてしまう面を持っている。 バニュワギの伝統舞踊であるガンドゥルン(gandrung)の伴奏楽器の中にバイオリンが取り 込まれたのは2百年も前のことであり、料理についてもバニュワギの西に渦巻く東部ジャ ワの文化を取り込んで融合させた珍奇なものがこの地に生み出された。ルジャッチグル (rujak cingur)とソト(soto)を合体させたルジャッソトや、野菜のプチュル(pecel)にラ ウォン(rawon)の汁をかけるプチュルラウォンなどをジャワ文化の中で見つけることはむ つかしい。 ブランバガン王国は、マジャパヒッ王国と同じころに興ったようだ。ドゥマッを中心とす るイスラム勢力がマジャパヒッを滅ぼした後も、ブランバガンはヒンドゥ=ブッダ王国と して勢力を維持した。 ドゥマッ第三代スルタンのトレンゴノの時代にドゥマッ軍は、1531年にスラバヤを陥 落させ、1535年にはパスルアン(Pasuruan)を征服した。余勢を駆ってドゥマッとパス ルアンの連合軍がブランバガンを攻めたが、ブランバガンは落ちなかった。1546年に 行われた商港パナルカンの攻略戦で、イスラム軍総大将のスルタン・トレンゴノは反対に 戦死している。 パスルアンを主体にしたイスラム軍はその後も1580年代、90年代、1600年にブ ランバガン王国への進攻を繰り返している。 イスラムマタラム王国が勃興し、スルタン・アグンがスラバヤを破って支配下に置き、中 部東部ジャワの支配権を握ったあとも、ブランバガン王国は依然として独立を保った。1 633年のマタラム軍進攻をもブランバガン王国は敗退させている。[ 続く ]