「TとH」(2018年10月12日)

ライター: 文司、ヨス・ダニエル・パレラ
ソース: 2007年11月23日付けコンパス紙 "Ibadat atau Ibadah?"

このタイトルはまた何を言っているのだろうか?インドネシア語にはアラブ語源の言葉が
たくさん取り込まれた。アラブ語がインドネシア語化されるときの問題のひとつが、アラ
ブ文字をラテン文字でどう表記するかということがらだ。インドネシア語はラテン文字を
使っているのだから。アラブ語のtaの文字をラテン文字に移し替える問題がそれだ。ta 
marbutahと呼ばれる文字が語尾に出現する場合、ラテン文字のhを使うのか、それとも
tを使うのか?その原則や歴史的変遷はアラブ語インドネシア語の専門家におまかせする
ことにしよう。


インドネシア語話者にとって問題になるのは、アラブ語の語尾に排他的あるいは包括的な
傾向を持つhを使うかtを使うかの問題だ。次の例を見てみよう。

われわれはjemaah hajiとjemaat Kristen、rumah ibadahとrumah ibadat、ibadah umroh
とibadat sabdaの例を見ることができる。アミン・ライス氏がPANを組織したとき、選
択が起ったとわたしは思う。政党名をPartai Amanah Nasionalとするか、あるいはPartai 
Amanat Nasionalにするかということだ。もしAmanahが使われたなら、それは排他的と
受け取られることになる。結果は、PAN設立者たちはAmanatを選択したから、PAN
は非排他的政党になった。気が付いたら、コンパス紙もサブタイトルにAmanat Hati Nu-
rani Rakyatと使っていた。高等教育機関の中にMWAという法人がある。Majelis Wali 
AmanahあるいはMajelis Wali Amanatだ。新聞編集者がMWAの方をよく使うのは、
AmanahかAmanatかで迷うからだろう。この双子のような綴りは言うまでもなくberkah
あるいはberkatをもたらしてくれるものだ。問題は排他的や包括的かという選択の問題
になる。

排他的な言葉を使うか包括的な言葉にするかはセミナーや会合での最初の挨拶言葉にも起
こるし、それ以上に政府の公式祝辞における「Assalamu alaikum dan salam sejahtera 
(昔は違った)bagi kita semua.」という言葉にも起こる。それらの表現は排他的であり、
既に定型化されてそのまま受け入れられている。

Hidayahというタイトルのシネトロン番組がある。hidayahという単語はKBBIに見当
たらない。KBBI第二版はhidayahにhidayatを参照するよう示している。Hidayatとい
う男性の名前があるが、Hidayahという形の名前はなく、女性名はHidayatiとなっている。

mukadimah, musyawarah, majalah, masalah, nafkah, khazanahのようにタマルブタで
t語尾の双子を持たないものもあれば、umat, rakyat, istirahat, hakikatなどのように
t語尾のものだけがあるものも存在する。ところがMPRはMajelis Permusyawaratan Ra-
kyatとなっていて、Permusyawarahanではないのである。

タマルブタをhにするかtにするかという問題が排他性と包括性の問題に向かうことのな
いように願いたい。さあ、その問題を協議(musyawarah)しようではないか。
musyawaratでなく。