「バニュワギの歴史(終)」(2018年10月12日)

ところが1697年にバリのブレレン(Buleleng)王国のイ・グスティ・アンルラ・パンジ
・サクティ(I Gusti Anglurah Panji Sakti)王率いる軍勢が攻め寄せた時、ブランバガン
は敗れてブレレン王に服属した。

バタヴィアVOC軍のバリ人奴隷部隊長で、軍を脱走してブランバガンに逃亡したウント
ゥン・スロパティ中尉がバリ軍の勝利に関与したのではないかと見られている。

その後ブレレン王がムンウィ(Mengwi)王の娘を妻にしたとき、ブレレン王はブランバガ
ンの支配権をムンウィ王に譲り渡している。ブランバガンは元々ムンウィ王家が征服して
いた土地であり、ブランバガン王国が興るまでそこはバリの支配下にあった。だからブレ
レン王がブランバガンを征服し、その後ムンウィ王に譲り渡したのは、バリ人にとっては
旧体制を復活させたという意味になる。


地元文化が中部ジャワを頂点にするジャワ文化とは異なっていたことから、ドゥマッにせ
よ、スルタン・アグンにせよ、ブランバガンをジャワ文化の支配下に置こうとした目論見
は成功しなかったのだという説もある。

1740年にバタヴィアで起こった華人大虐殺事件とそれに続くジャワ戦争の結果、時の
スルタンであるパクブウォノ2世は1743年にジャワ島東部の支配権をVOCに譲渡し
た。そこにはブランバガンも含まれていたのだが、マタラム王国はブランバガン王国を実
質的には服属させていなかったという奇妙な関係になっていた。


VOCがブランバガンに立ち入る余裕もないころ、イギリス人がそこに目を着けた。17
63年にイギリス人はブランバガン王国に通商を求め、独立王国と自負しているブランバ
ガンはそれを受けて、イギリス人商人たちを収容するロッジを設けた。バニュワギ市内で
イングリサン(Inggrisan)と?呼ばれている建物がそれだ。

放置できないと感じたVOCが動きを開始し、ブランバガンを直接の支配下に置くために
1767〜1772年に渡って戦争が継続した。1771年に行われた激戦はププタンバ
ユ(Puputan Bayu)と呼ばれて、インドネシア人による反オランダ闘争史の一ページを飾
っている。

最終的にVOCが勝利を収めてブランバガンの支配権を握り、バリの王国からの影響を完
全にシャットアウトした。そしてVOCが置いたブランバガンの現地行政官にムスリムを
起用したため、ブランバガンのイスラム化はそこから始まったとされている。[ 完 ]