「地名バニュワギの由来(終)」(2018年10月17日) 夫は子供を抱いた妻を屋敷の裏を流れる川岸に引きずって行った。そしてクリスを抜き放 つと妻の心臓に向けた。すべてを悟ったスリタンジュンは愛する夫に最期の願いを聞いて 欲しいと訴えた。 王があんな話を捏造した以上、早晩この話は国中に広まるにちがいない。不貞な妻として 自分が死ねば、夫の身は安全だ。しかし夫が自分を赦せば、夫は王に反抗したことになる 上に、世間から人道倫理を私物化する宰相と見られてしまう。その結果わたしたち夫婦に はこの国を落ち延びて行く意外に道はあるまい。愛するひとの身を活かすには、自分が犠 牲になるしかないのだ。 「どうか聞いてください。わたしの身は潔白なのです。わたしにそれを証明させてくださ い。わたしとこの子はあなたに生命を捧げます。ただ、わたしたちが本当にあなたを愛し ていたことだけは信じてほしいのです。 わたしたちはこの川でそれを証明します。わたしたちの死体をこの濁った川に投げ込んで ください。もし川の水が澄み、わたしたちの血が流れ込んだ水が生臭くなく、芳香を放っ たなら、わたしたちは無実だったということを・・・」 感情が昂っているシドペッソにとって、それは世迷言以外のなにものでもなかった。かれ の力強い右手が突き出された。スリタンジュンの胸から血がほとばしり、妻はその場にく ずおれた。赤児の生命も失われた。 そのシーンを遠巻きにしていた屋敷の用人たちに宰相は命じた。死体を川に流すようにと。 ゆったりと流れる濁った水の中に、スリタンジュンと赤児の死体が落とされた。ふたりの 血が水の中に溶けこみはじめると、濁った水が見る見るうちに清流に変わって行った。 そのありさまを目にしたシドペッソは顔色を変えた。クリスを地面に投げ捨てると、少し 流され始めているふたりの死体めがけてかれは水中に身を投げた。川岸に集まって来てい た屋敷の用人たちの耳に、宰相の慟哭とつぶやきがはっきりと聞こえた。「水が、水が、 香っている。」 [ 完 ]