「ボゴール市内の観光スポット(1)」(2018年10月22日)

2016年にボゴール市を観光に訪れた外国人は1.3万人で、インドネシア人は529
万人。一方、ボゴール市を取り巻いているボゴール県の方は、外国人観光客が22.9万
人でイ_ア人観光客は496万人。

ボゴール県にはプンチャッ・サファリパーク・果樹パーク・花パーク・鹿パーク・温泉な
ど観光スポットが山のようにあって、集客力がボゴール市よりはるかに高いのはわかるの
だが、外国人観光客数が17倍も違うというのはどういうことなのだろうか?世界に冠た
るボゴール植物園の魅力は、インドネシア人の目にしか映らなくなってしまったのだろう
か。実際、ボゴール植物園とその周辺にある自然科学系の博物館だけでは今一つ深みに欠
けると言われても仕方ないのかもしれないが。


オランダ植民地時代にボゴール宮殿の北側がエリート地域として先に開発された。そのシ
ンボルがボゴール宮殿表玄関からまっすぐ北に延ばした線上およそ2キロ先に建てられた
白亜の塔ヴィッテパアル(De Witte Paal)と地区一帯の道路の両脇に植えられたクナリの
木で、クナリの木より高い建物を建てることが禁止された。

高さ25メートルのヴィッテパアルは共和国独立後の1964年に取り壊されてもっと小
さい塔と噴水が作られたため、今は噴水塔(Tugu Air Mancur)という名前で呼ばれている。
ヤン・ピーテルスゾーン・クーンの銅像をはじめ、あれほどオランダ人が作った建造物を
壊しまくった大日本占領軍が、ヴィッテパアルを温存していたというのは何が理由だった
のだろうか。日本軍が去り、オランダ植民地勢力の復帰をなんとかかわしてからかなりの
歳月が経過したあと、ボゴールのひとびとがやっと昔の日本軍のような口実でヴィッテパ
アルを取り壊したという奇妙な流れは何を意味しているのだろうか。

オランダ植民地時代、ボゴールはバイテンゾルフあるいはサンスシと呼ばれて、それ自体
が桃源郷と見られていた。つまりバイテンゾルフは当時オランダ領東インドに住む西洋人
にとっての観光スポットだったのである。もちろん当時のひとびとが取ったビヘイビアは、
物見遊山という形よりも避暑バカンスという性格のほうが強かったようだ。[ 続く ]